Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

四畳半の檻

光の当たる午前七時

空白の郵便受け

珈琲の仄かな香り

新しく至る朝

だから

僕は醜い

もう僕を見ないでくれ

 

青空をゆく雲の流れ

街を渡る温かい風

揺れる背高草の影

帰れない夏がある

だから

僕は醜い

もう僕を見ないでくれ

 

飲みほした酒の瓶

乾いていく瞳の海

雨を望む人々

終わりゆく時の淵

だから

僕は醜い

もう僕を見ないでくれ

 

過剰摂取の睡眠薬

退廃する玉ねぎの芽

踏み荒らされた平和

明日世界は死ぬ

だから

僕は醜い

もう僕を見ないでくれ

 

かなぐり捨てた愛の記憶

抱きしめられたかった過去

死を望む刹那の閃光

ただ苦しみたいだけの生

だから

僕は醜い

もう僕を見ないでくれ

 

好きになるのをやめてくれ

愛するのをやめてくれ

心配するのをやめてくれ

抱きしめるのをやめてくれ

気づかうのをやめてくれ

もう僕を見ないでくれ

僕を見つけないでくれ

僕に触らないでくれ

僕の苦しみは

僕だけのものだ

僕の苦しみを

分け合わないでくれ

 

僕は一人で苦しみたい

僕は孤独のままに死にたい

僕の苦しみは

僕だけのものだ

やめてくれ

 

愛されるのが怖い

愛するのはもっと怖い

 

もう僕に

関わらないでくれ

休日、生と死、そして精神について

注:この文章は、私が約一年前(2019年7月21日)に書いたものを推敲したものである。つまり大学3年生の私の文章である。ゆえに現在の私の思想とは異なった部分もある。注意されたし。

 

 もうしばらく自分の文章を書いていなかった。自分で文章は書いていたし、それは自分の文章には間違いないのだが、自分が好き勝手に文章を書いてはいなかった。六月末からレポートが忙しくなり(今期はなんと八本(正確には九本)のレポートが課された)、それに追われてばかりいた、本日やっとそれに区切りがつき、久々に自分の文章を書いてみようと思いここに筆をとり始めた。

 レポートに関して少し述べておきたいことがある。私は今学期、十一の授業を取っている。そのうち四つが試験を実施した。試験を実施した授業の二つはレポートも課した。ということで八つものレポートを書かねばならなかった。正確には演習ではレジュメ用の文章とレポート用の文章で二度書かねばならないので、九本ともいえる。それは措いて、さすがの私もこれだけの量のレポートには骨が折れた。それなりに頑張って調査・考察をして書いたつもりだが、細かい論の展開や形式の面でかなり粗雑な面が現れたと思う。もう提出してしまったのでどうしようもないが、レポートの内容・質ともにそれほど良いものではなかったと思う。もちろん、それでも一二年次に比べてほぼ劣ることはないと思う。しかし、当然三年にもなれば高等な質のレポートが求められる。成績のために勉強しているわけではないが、それでもかなり心配は大きい。

 ところで、そうはいっても私はこの半期、様々な面での知識が増えたと思う。読書も相当に行った。それ自体は良いと思う。しかし同時に、生半可に知識が増えたことにより、迷うことも増えたと思う。レポートを考える際も、あれやこれやと様々な側面で論じられることを考え、この道一本と決めて進むことができなくなった。初心のころは、知識が限られていたため、自分に書けることを全部ぶつければそれでよかった。今はそうはいかない。自分の中の選択肢から最良を選び取らねばならない。ここに来て私は、初心をわするるべからずという格言を身に染みて感じた。大切なことは、知識ではない。その先にある自己である。情熱である。学ぶことが増えたから、より一層、丁寧にひとつひとつをこなしていかねばならない。日々心を入れ替えて、初心に立ち返り、謙虚実直に生きていきたい。

 さて、私はそのように知識をたくさんに得ているので、当然色々と思考することが多い。起きている時間は、読書時間や授業時間も含め、ほとんど思考を巡らせていると言っても良い。かといって、何か結論が出ているわけではない。私は結論を急いではいない。ゆっくりと亀のように牛のように進みたい。漱石が芥川か何かにそんな手紙を送っていたような気がする。久米正雄だったか。まあ忘れたが。とにかく、思考はするが結論はしない。全てが仮説に留まって証明を待っている。私の大好きなエマーソンの著書の中に、「目が一筋の光を捉えたならば、それはその光を証明するためだ。」という言葉がある。私の信ずるところはまさにそれだ。自分だけの光を常に追い求めていたい。

 しかし、そうはいっても日々繰り返される思考の中で、各々の考えを保持していくことは難しい、ともすれば、それは繁雑さに押し流され、二度と戻らない無意識の淵へと堕ちてゆくかもしれない。だから私は、書いていたい。どんな些細な内容でも書き記しておきたい。中国の古代の儒者が、聖人の言には劣る、取るに足らないものではあるが、庶民の言説であってもすべて書き留めようとしたみたく、私もまた、どんな些細な光であってもそれを捉えておきたいと思う。エクリチュールは保持を可能にする。文学の走りは日記であったとも言われている。書くことから始まることもある。だから今ここに、今の私の姿を、記しておきたい。

 そういうことで、今回の「思想雑記」(注:私が自分の思想などを書き留めるために作ったシリーズのようなものである)も、私が最近考えることの一片を示したい。とても小さなテーマだから、すぐに終わってしまうだろう。壮大な仮説というよりは、もうすでに結論に近いが、掘り下げたりテーマを広げたりすればかなり面白い観点になるかもしれない。少なくとも、私の知る古典の名著や現代思想においても、あまりこの手の議論が主流にはない。

 何かといえば、休日ということについてである。より狭めて言えば、人間に休日が必要か否かという議論である。

 休日とは、なんだろうか。休みの日である。それはそうであるが、人間にとって休日とはどのような意味・価値を持つものであろうか。このような問いを持った理由は、二つある。一つには、野生動物には休日というものが存在しないだろうという点である。文明社会に生きる人間が、野生動物と同じであるとは私は思わない。しかし、野生動物というものは休みの日などないのだし、おそらくは文明以前の人類にも休日などなかった。休日に関する歴史をまとめた書物などあるだろうか。あれば読みたい。恐らく文明化し制度化されてきたどこかで、皆が共通に休める日を制定しようとしたのだろう。キリスト教などは聖書に休日が決められているが、あれが始まりだろうか。

 休日について考え始めたもう一つの理由は、自己という概念について考えていたことによる。果たして自分であることを休める日などあるだろうか。たとえ仕事などが休みの日であっても、自分が自分であることを休むことはできない。自己は常に自己であり、それゆえに人間は様々な制約を受けねばならない。休みの日というのは、本当に休んでいるのだろうか。むしろ休みの日にこそ、自己は自己の本来性を回復し、自分らしく立ち働くのではないだろうか。休みの日にどう過ごすかにこそ、その人をその人たらしめる要素が多分に含まれる気がする。

 曹洞宗の開祖、道元は、座禅を組むことにより、自己がすなわち仏であるということを悟るとしたが、典座教訓や雲水たちの一挙手一投足に至っても、それすべて修行であると説いた。洗面も、食事も、掃除も、寝るさまでさえも、仏であるということを意識し、自らが仏であることにふさわしい人間であることを意識しろと教えた。修証一如という言葉はまさにその意味である。

 私たちは、常に自らがどのような人間であるかについて気にしているだろうか。気にすることは息苦しいものだろうか。私はやはり、自らの行いを俯瞰することは日常生活の中で必要であると思う。休みの日であっても、私が私であるということには変わりはないし、私が私であるということを忘れてはならないと思う。

 動物は、日々、生きるか死ぬかの極限の中に暮らしている。効果的な貯蓄の術をほとんど持たない彼らは、その日その日の食事がないだけでやがて死に至る。強者に食われても死に至る。病に犯されれば助かる見込みはない。何かしらの傷を負えばそこが化膿し壊死しやがて致命傷となる。彼等が生きることは、現代人類の想像を絶するほど困難だ。

 そんな状況の中で、生きるということ。日々その時その時が、末期の時かもしれないということ。この意識は、果たして人間には不要であるだろうか。人間は、休日だからと言って全く安全に、気を抜いて、自己が生命たることも忘れ、享楽にふけってよいものだろうか。私はいささか、現代人類には、特に日本のような高度に成熟した文明社会においては、生命に対する危機感が足りていないと思う。

 凶悪事件が起こる。つい先日も、某アニメ会社のビルが放火され、多くの人々が亡くなったらしい。それに際し、人々は何を思うだろうか。人間の生命に関して、一方では動物たちと変わらず、いつ生命が失われるともわからない状況がある。しかしその一方で、近いうちに失われるのは自らの生命ではないと考える人々が大多数であろう。そんなことでいいのだろうか。そんなことだから、人間の死について真剣に考えられずに、認識が歪み、暴力が生まれ、自らについて熟考することもできない人間が量産されている現状があるのではないだろうか。

 死について考えられないことは、生についても考えられないことである。目先の利益や享楽に囚われ、自己を失っている人間ばかりだ。精神が乏しい。精神が乏しいと心身も乏しくなる。心と体は、人間の全部ではない。古代の先人たちは、乱世を生き抜いた戦士たちは、人間を考え抜いた賢人たちは、皆、人間の精神の重要性を説いている。人間は心身のみにて生きるにあらず。心身神この三種の相互支持において生きる。精神は、宗教においては神への信仰である。人類がなぜ宗教を生み出したか、それは精神を必要としたからである。なぜ人間が精神を必要としたか、それは人類が文明化の中で、精神を失っていくと思われたからである。

 野生動物には、精神がある。人間よりはるかに強い、生への執着と志向性がある。しかしそれは逆説的に、死をいつでも受け入れる魂でもある。いつでも死ぬことができるということは、いつにおいても全力で生きられるということである。日本の武士道の神髄は、まさにこの点にあった。「武士道といふは、死ぬことと見つけたり。」宗教がなぜ、死にこだわるのか、それは生を豊かにしたいからである。生と死は同体の二側面である。生だけに固執し、死を全面的に拒むような人間は、結局生そのものを直視しないことになる。死は、生であり、生は、死である。我々はまず何よりそのことを思い出さなくてはならない。

 私が休日について思う点は、まさにこのことである。人間には休みが必要であるというのが、多くの人々の意見であるだろう。しかし実際に、人間は休めるだろうか。人間であることを休めるだろうか。労働環境などの話ではない。その問題はもっと別の重大事項である。私は労働については別に意見を持つ。だがここでは、もっと根源的な話をしたい。

 私は、私を表す何か分類を一つだけ用いるとすれば、学生でもなく、日本人でもなく、若者でもなく、人間でもなく、ただ、「生命」と称したい。私は根本的には、一つの生命である。やがて終わりゆく命である。それは百年後かもしれないし、今かもしれない。全てが未知に包まれた、明日なき生命である。生命には今しかない。今ここもとに生死を分かつ。それが生命の本質であると思う。「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは。」花を見よ。木々を見よ。鳥たちを見よ。虫たちを見よ。魚を見よ。獣を見よ。皆、その時を至極全うに生きている。彼らには現在しかない。過去も未来もすべて、この瞬間の現在へと収斂する。

 私という生命は、どこに生きているだろうか。休んでいたとしても、私は現在にしか生きることはできない。「今しかないだろ。全部やるにはさ」

 私は、生きたい。この瞬間を生きたい。時の流れは、人類の生み出した概念だ。しかし、変化というものは、留まる事を知らない。この流れの中を、生きたい。

 もはや休日というテーマとは全く関係のないものになってしまった。まあそれでいい。一貫性は論文を書く際には重要かもしれぬが、これは論文ではない。ただの思考の整理だ。否、整理でもない。ただ流れの痕跡を残すだけだ。意味はない。意味はないからこそ、そこに得も言われぬ良さがある。あってほしい。私はそう思う。

 最後にひとつ、述べておきたいことがある。それはセンシティブな内容なので、もしかすればこの部分は誰かに読まれれば大きな批判を浴びせられるかもしれない。でも、言いたいことがある。

 精神病という言葉がある。現代においても使われているのかどうか、私は医学について全く無知であるからわからない。ただ、「精神病」という言い方はやめたほうが良いと思う。あれは精神が病むのではないだろう。心理が病むのであろう。だから心理病といった方がいいのではないだろうか。フロイトの例の方法も精神分析と呼ばれているし、精神医療だとかまあ色々の言い方があるが、私はそれらの訳がどうも馴染まない。心理学は英語でサイコロジーであるが、精神分析サイコアナリシスという。これは同じ系統に属する語であるのに、なぜ心理、精神と別の訳語を当てているのだろうか。全く意味不明である。

 なぜこんなことを言うかというと、先述したとおり、心理と精神は別のものであると私は考えるからである。心理は基本的に言葉による。ゆえに言語を持つ人間にしか意識されないものである。しかし精神は、動物にもある。この違いだ。精神はどちらかと言えば、心理学的には無意識の底の底にある何かであるだろう。エネルギーを与える根源である。もしかすれば、このような考え方に基づいて「精神」分析と訳したのだろうか。だとすればまあ妥当性はある。

 精神は、病むものではない。病むのは心理である。現代人は精神と心理を混同している。自分が何を病んでいるのかわかっていない。精神という存在を捉えきれないために、病むとも言っていいだろう。生と死を包括する精神を軽視して、心理ばかりに目が行くために、病む。心と体は人間の全部ではない。精神という力の源泉に支えられて我々は生きている。そのことを忘れてはならないだろう。

その「よろめき」

 僕はそれを、「よろめき」と名付けている。

 その感覚は、恐らく多くの人が味わったことのあるモノではないかと思う。忙しなく生きている日常の中で、ふとした瞬間にそれは訪れる。それは例えば、学校や仕事の終わりに、疲れて駅のホームで電車を待っている時、体全体が、なだれ込むように線路へ転落していきそうになる感覚。それは例えば、朝の倦怠の中で、信号の変わるのを待っているとき、車が高速で行きかう道路に向かって、吸い込まれそうになる感覚。それは例えば、橋の上から川を見たとき、キラキラと輝く水面に、もう一人の自分を見つけて、それと一つになろうとするような感覚。そういったものである。

 死にたいわけではない。消えたいという感覚とも違う。「死にたい」「消えたい」という言葉で説明すれば、伝わりやすいかもしれない。しかし僕は、それらとは違う感覚であると思っている。感情でも思考でもない、魂が、吸われていくような感覚。それは僕という生命の根幹から出てくるような強い衝動なのだ。フロイトでいうような、タナトス(デストルド)というものかもしれないが、僕はそれを「よろめき」と呼んでいるのだ。

 「よろめき」なんて言うと、どこか三島由紀夫的だなあと思われるかもしれない。けれど、僕の感覚をできるだけ正確に表すならば、「よろめき」なのだ。「ふらつき」でもなければ「ゆらめき」でもない。「ぐらつき」とも違うし「たゆたい」でもない。とにかく僕としては、それをずっと、「よろめき」と呼んでいる。

 この「よろめき」の正体は何なのだろうか。その答えは、残念ながら僕にはわかっていない。ただ、僕は自分の生命の正体が、なんとなく感覚としてつかめているような気もする。それは、普遍的な真理ではなくて、僕にとって自分の生命が、どんなものであるかという感覚だ。だから、僕以外の人には理解できないものであるかもしれない。僕は正しさを求めているわけではない。僕は僕にとっての「僕」がどんなものであるのかを、知りたいだけなのだ。自分にとっての自分とは何か、それが僕にとっては最も大切な問いなのだ。

 僕はもう、長年の間、この「よろめき」を感じて生きてきた。何度死のうとしたのかは数えきれない。それがいつから始まったのかさえ忘れてしまうほど、長い間、僕は「よろめき」を抱えながら生きてきた。確実に思い出せる強い「よろめき」の記憶は、高校二年の頃、何もかも嫌になって、前橋駅のあのホームに座り込み、ひざを抱えていた時だ。僕はアナウンスの後に、遠くから聞こえる電車の車輪の音に、ぐっと引きずり込まれた。存在全体が線路の方へ向かって行った。足が自然に動いていたのだ。そして、僕は黄色い線を越えて、ホームの突端に立っていた。誰かの声が聴こえた。電車が迫っていた。汽笛がけたたましく鳴り響く。その瞬間、僕は後ろに二歩、そっと下がったのだ。まるでまだ死ぬべきではないと悟ったかのように、僕は自動的に、後ろに下がっていた。そんな経験を、僕は今まで何度も味わってきた。そのたびに感じるのは、死ねなかったことへの後悔と、助かったことへの安堵だった。ぎりぎりのところで僕を生の方に引きずってきた何かは、何なんだろうか。

 僕はそれを、やはりフロイト的になってしまうが、生存の本能のようなものとして捉えるしかない。僕の中では、だから、いつも生と死の衝動が互いに戦い、葛藤を引き起こしているのだ。僕はこういう二元論的世界観を好まないが、人間が多く神話の時代から二元的世界を好むのは、人間の内面にあるその「戦い」を意識してのことのように思う。生と死という究極の戦い。その戦いに、僕たちは常に向かわざるを得ない。

 善の神と悪の神。天国と地獄。断罪と救済。輪廻と解脱。光と闇。僕たちはいつだって、生と死を考えてきた。僕のその「よろめき」も、恐らくありふれた人間の体験で、しかしながら、いや、だからこそ宗教的な体験なのだ。登らない朝日はないけれど、沈まない夕日もない。生滅を繰り返すのが、世界のただ一つの定めであるだろう。だとすれば僕が生に苦しむことも、死を希求することも、世界の理なのかもしれない。

 話は変わるが、僕は自分の生存を、自分でどのように捉えているのかを、少しわかってきたと言った。それについて書きたいと思う。

 僕はその感覚を「よろめき」と名付けたように、自分の存在を確固たる自我としてではなくて、むしろ変化し、時に揺らぎ、消えもするようなものと捉えている。デカルト的コギトなんて僕にとっては嘘で、むしろ老荘の思想のように、東洋的な無常観に僕は支配されているだろう。僕にとって、僕は確かに存在する者ではない。だから僕はときに立ち消える。煙のように立ち消える。主観が無くなる瞬間がある。つまり、忘我=エクスタシーになるのだ。僕は世界と一体となって、輪郭を失う。僕の魂は放散する。こんなことを言うと、頭のおかしい人間だと思われるかもしれない。それでもいい。僕は嘘は言っていない。本当に、そういう瞬間があるのだ。

 では、僕は僕をどのように考えているのか。ここまでの話の内容だけでは、普段の僕には自我ではないが簡単な知覚の束のようなものがあって、それがふとした瞬間に放散するのが「よろめき」なのだと捉えられるかもしれないが、そうではない。僕はむしろ、普段においては主観すら存在しないと考えている。いや、厳密には、感覚としては存在してはいるのだが、明確にそれを強く意識するような自己意識はないと考えている。考えてみてほしい、自我、主観などと言うが、自分の輪郭をしっかりと把握して、他者との間に明確な境界線を引いて生きている人はどれほどいようか。なんとなく生きて行動しているものを、勝手に自己だと考えているに過ぎないのではないか。だから僕はむしろ、僕と言う存在を、幻覚であると捉えている。僕は蜃気楼のようにふるえて、その実体はない。僕は陽炎のように揺らめき、近づけば遠ざかる。僕は煙のようにたゆたい、触れようとすれば消えてしまう。僕はそもそも、そんな存在なのだ。

 だから、ここからが一番大事なのだが、僕にとっては「よろめき」こそが実体の正体なのだ。生と死が葛藤する場所、生命の震動する舞台、主客の消失点、永遠の境界線、それが僕なのだ。流体に触れたとき、その境界が揺らぐ。その揺らぎこそが僕にとっての自己なのである。僕はしかし、流体そのものではない。流体の境界の揺らぎが僕なのである。何か実体を持っていて、それが折に触れて動き出す、という存在モデルではない。変化と生滅の過程で発生した震動、その避けられぬ葛藤こそが僕の正体である。

 「よろめき」こそが僕であるから、僕はそうした「よろめき」を感じる時に、最も自己を強く感じる。消えてしまいそうになった時、最も強く存在を感じる。それはまるで花火が、散る間際に最も華やぐ光を放つように。桜の、散り際の香りが最も素晴らしいように。消えていく際にこそ、最もそれが尊く、美しく感じるのである。そのように例えてしまうのは、文化的側面に訴えかけて、少しずるいかもしれない。しかし、消え去る時に初めて出会うような感覚というものは、僕はあると思う。仮に僕の自殺が本当に成功したとするならば、僕の生命の炎は、その死ぬ瞬間に最も力強く燃え上がるだろう。自殺でなくてもいい、誰かと究極まで愛し合うことも、僕にとっては死ぬようなものに近いと思う。その人に向かい、その人の中に入り、その人の中から抜けていく。その時、僕は愛する人を経て一度死に、生まれ変わる。新生は死から始まる。僕が芸術をやることも、一度死んで生まれ変わるようなものなのだ。

 僕は「よろめく」、でもそれは僕にとって、本質的なことなのだ。僕はいつか、「よろめき」過ぎて死んでしまうかもしれない。でも、それも僕にとっては本望だ。僕は僕のために死ぬ。芸術のために死ぬ。生命のために死ぬ。新しき創造のために、僕はこの命を捧げる覚悟だ。新しき明日のために。新しき愛のために。

時の漣

汀の心を撫でる

淡い空色の残像

寄せては返す夢

囚われた過去の夢

 

汀の心へ添える

脆い鈍色の記憶

退いてゆく故郷

遠く懐かしき故郷

 

汀の心に刺さる

強い黒色の荊棘

忘れられぬ罪悪

裏切りと涙の罪悪

 

汀の心は求める

仄い黄金の曙光

受け取った愛情

与え合う愛の脈動

 

響かせる魂の鼓動

顧みる悲しみの反動

未知なる生命の胎動

明日へと向かう世界

 

時のさざ波は消し去る

忘れ行く人々の影を

紡いでは解れ

解れてはまた紡いでゆく

放熱する想い その証

 

誰かとともに綴りたい

新しき日誌の一頁を

 

誰でもないあなたとともに……

一人の午後

 最近の僕といえば、危険な行為で自分の生命を犯すことでしか、満足を得られない。死にたいのかもしれない。抗うつ剤のおかげで死にたいと思わなくなったけれど、無意識は死を求めているのかもしれない。チャンポンをよくする。チャンポンっていうのは、僕の場合は、お酒と向精神薬を一緒に飲むことだ。効果が急激になったり、不安定になったり、思わぬ副作用が出てきたりして、場合によっては生命の危機になる。それを知っていて、やってしまう。

 昨日は抗うつ剤を日本酒と一緒にのんだ。日本酒は美味しいから好きだ。でも親に取り上げられてしまわれていた。さっきその残りを冷蔵庫から出して、精神安定剤と一緒に飲んだ。一気に日本酒を入れたから、喉が熱くなった。最近はお酒を飲むと体が震えだす。抑えきれない身体反応が衝動的に起こる。よくないことをやっている自覚はある。抗うつ剤のせいか、実はお酒を飲んでも気分はよくならない。むしろ体調が悪くなるばかりだ。今朝も副作用が強く出たせいでめまいが止まらなかった。まともに歩くこともできないくらいに。視界が狭まって暗くなっていた。頭が痛くて思考ができなくなる。起きてもまだ夢の中にいるような。半分幻覚に近いようなことが起こった。そういうことを繰り返して、命をすり減らすのが、やめられない。

 いつか肩に負っていた古傷が痛む。この傷は、いつ、どこで、誰かにつけられた傷だったろうか。僕も、いつか、どこかで、どれだけの人を傷つけてきたのだろうか。そしてそのたびに、どれだけ誰かに許されてきたのだろうか。僕の罪はいまどこにある。僕の罰はいつどこで受ければいい。僕はどうやって生きてゆけばいい。

 お酒と薬の相乗効果で、足の震えが止まらない。座っていると、ずっと震え続けている。眠いような眠くないような気分がずっと続いている。ここがどこで、自分が誰なのかもよくわからなくなる。医者は頭がいいけど、バカかもしれない。こんな僕みたいな人間に向精神薬を渡せば、何をやるかわかったものじゃないのに。僕がもらうくらいの薬の量じゃオーバードーズで死ぬことはないけど、体と心を破壊することくらいはできてしまう。僕はそういう武器を手に入れてしまった。自分を破壊するための武器を。

 もう頭が回らないから、書くのをやめる。僕は人間失格だ。終わっている。こんな僕を見ないでくれ。愛さないでくれ。助けないでくれ。もう誰も、僕のことを忘れてしまってくれ。僕は僕という存在の重さに耐えられないよ。

溶けていく、体

自傷をすることでしか

生きている実感がつかめない

心にぽっかりと穴が開いていて

そこから常に血が流れている

僕はいつもその穴にナイフを突っ込んで

その膿と血をえぐりだす

吹き出す感情

減っていく人間の実存

今日もまた雨ばかり降っている

 

日の光にあたると

僕の身体は溶けてしまうんだ

そんなことを君に言っても

君は笑うだろうか

本当なんだよ

僕は光に嫌われているんだ

目が覚めてカーテンの隙間から

差し込んでいる朝の光が

僕の手足を貫いたとき

僕の肉は爛れて

骨は歪んで折れた

今日もまた雨ばかり望んでいる

 

あの日の失敗を

あの日の後悔を

あの日の堕落を

あの日の絶望を

あの日の惜別を

抱きしめてもなお

輝けるものへの

劣等は止まない

 

雨の日は人間が減る

だけど光の中で

この肉体が溶けてしまうより

自分を壊している方がいいんだ

淡い心の膜を

突き刺して

突き刺して

突き刺して

突き刺して

突き刺して

突き刺して

突き刺して

突き刺して

突き刺して!

境界を曖昧に

激痛を明瞭に

そうやって内なる涙を流す

僕は光に嫌われている

君にわかるかい

ゆえわかぬ

このかなしみが

光に嫌われた者の

影で流す

この涙の重さが

心の財産

人生とは、心にある財産を

支払って生きていくものだと

僕を救ってくれた

ある男が言っていた

 

心の財産は

さいころから

たくさんの愛情や真心を

人から受け取ることで

増えていくものだと

僕は思っている

 

心の財産は

自分の力で増やすこともできる

芸術に親しんだり

多くの経験を積んだり

そうやって心を豊かにすることも

できるかもしれない

 

でも、結局人は

人とのかかわりの中で

愛し合い

いたわり合い

なぐさめ合って

生きていくものだから

心の財産は

誰かから与えられて

そして誰かに与えていくもの

僕はそう思っている

 

苦しい思いをしたとき

悲しい思いをしたとき

ふっとこの世から

消えてしまいたくなることが

きっと誰にでもある

そんなときに

誰かからもらった

小さな心の財産の

そのひとかけらが

その人の命をつなぐ

そんなことも

あるのだろう

 

あなたの苦しみは

僕にはわからない

僕の苦しみも

きっとあなたには

わからないかもしれない

それでも

僕とあなたが

手を取り合って

互いの苦しみを

癒すことはできる

 

心の財産は

目には見えない

でもたぶん

目には見えないものを

命の支えにして

人間はみんな

生きている

 

心の財産が消えてしまうその日まで

僕は支払いを続けて

同時に誰かから与えてもらい

時には自分で与え

そうやって死ぬまで

繰り返していく

心の財産が消えてしまうその日まで

僕は人から優しさを受け取り

誰かに優しさを与えて

そうやって生きていきたい

 

人にやさしく

命にやさしく

全て生命はみな尊く

愛おしいものであるから

僕はこの世界が腐ってしまっても

それでもこの世界を

愛し続けたい

 

そんなことを、ふと思ったのだ。