Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

長谷川櫂『震災歌集』を読んで【日日所感No.3】

 新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。

 日本国内においても、緊急事態宣言が発令され、混乱が広がっている。混乱は、医療だけの問題に留まらず、社会制度や経済にも及び、先の見えない不安に煽られてか、人々の心の中もまた、荒みを見せ始めているように思う。医学的基準により、ウイルス感染の危険性を高めると思しき行動は即悪とされ、人々は、精神に圧し掛かる不安感を晴らすかのように、ウイルス感染の危険性を顧みないような行為を批判し、延いては感染者自体を批判する。全員が合理的な行動をお互いに求めすぎるあまり、合理的でない人を袋叩きにする。弱き者たちが、さらに弱き者を叩く。

 しかし、そのような市民個人への集中的非難は、果たしてウイルス感染を予防するのにどれほどの効果を上げるのだろうか。政治による国民の救済(これは国家の義務である)が十分になされないことへの不安を、国民同士でぶつけ合うのは明らかに分断統治の術中に嵌っている。しかるべき批判をしかるべきところへぶつけなければならない。

 歳寒くして、松柏の凋むに後るるを知る。人類は、幾度も巨大な危機に立ち向かってきた。その艱難の最中に於いてこそ、人間性の真価は問われるだろう。感染症の問題だからといって、医学のみに全てが背負わされているわけではない。医療従事者の人々が最前線で戦う後ろでは、医学以外の諸学問、人文社会科学も含め、多くの学問がそれぞれの知を用いて人間の危機には立ち向かわねばならないのだ。

 

 

 

 興味深い話を耳にした。それは、この新型感染症の流行を受けて、過去のパンデミックを記録した文学作品などが売れているらしいのだ。出版社の中には関連書籍をネット上で公開しているところもある。感染症に対して科学的アプローチを取り、直接介入を行う医学等理系学問に対して、文系学問は政治的・社会的動きに着目し、文献という形で多くの記録を遺してくれた。現代においても、本の価値は決して消失してはいない。皆、この見通しのきかない霧中において、先人の足跡とその智慧を求めているのだ。

 私もできる事なら手元にそのような本があってほしかったが、特に見当たらなかった。ネット上の書物は後で読むとして、部屋中に積まれた古書の上に、一冊のまだ新しめの本を見つけた。それは、長谷川櫂さんの『震災歌集』である。中央公論新社から2011年に上梓されたものだ。本書は、2011年の東日本大震災の直後の状況を短歌によって記録したものであり、万葉集以来の日本の古語を用いつつ目の前で刻一刻と変化する状況を冷静に歌い上げている。

 歌集を読み通してみて思ったことは、当時の日本の状況と、現在の新型コロナウイルスによる騒動とに似通った部分があるということだ。もちろん、東日本大震災と今回の感染症とは全く状況が違うのは確かである。しかし、国中が広くある危機を共有しているという点では近しい状況であるだろう。そこで、私は本書の中からいくつか歌を引用し、ここに示し、拙いながら鑑賞を行いたいと思う。

 但し、危機的状況であったためか、本書は相当に当時の政治批判を含むが、私はその政治的立場と全く同じということではなく、本書の短歌を純粋に当時の社会記録として読むこととする。以下、引用。

 

 

 

  1.かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを(p8)

 

 

  2.大津波溺れし人を納むべき棺が足りぬといふ町長の嘆き(p11)

 

 

  3.目にみえぬ放射能とは中世のヨーロッパを襲ひしペストにかも似る(p35)

 

 

  4.いつの世も第一線は必死にて上層部のやから足を引つぱる(p52)

 

 

  5.「日本は変はる」「変へねばならぬ」といふ若者の声轟然と起これ(p53)

 

 

  6.ゲーセンに子どもあふれていることの平安を思ふ大津波ののち(p66)

 

 

  7.「今の若者は」などとのたまふ老人が両手に提ぐる買占めの袋(p78)

 

 

  8.「真意ではなかつた」などといふなかれ真意にもとづかぬ言葉などなし(p83)

 

 

  9.復旧とはけなげな言葉さはあれど喪ひしものつひに帰らず(p144)

 

 

 以下、大まかな問題ごとに歌を分け読解と感想を述べたい。全ての歌について触れられているわけではない点を諒恕されたし。

・1の歌について。 

 毎日報道される感染者〇〇人、死者〇〇人という計量された数値の奥には、一人一人の人間、親や子や兄弟を持つ人がいる、という考え方は、古くは第二次世界大戦時の戦争文学の中によく見られる。大きな物語では計り知れない個々人の小さな物語への着目は、20世紀の思想や文学が達成した一つの視点であると言えるだろう。

・2,3,4の歌について。

 棺が足りない状況、目に見えぬ脅威に対する不安、そういったものはまさに現在進行形で起こりつつある新型感染症の流行と重なり合う部分が大きい。しかし、そういった危機に対して、いつだって政府の上層部は役に立たないどころか足を引っぱるのが日本政治の悪しき伝統芸でもある。今回も国民の生活は苦しくなる一方であるのに、政府は十分な補償なしに自粛を要請するばかりである。それどころか現政権はこの混乱に乗じて憲法を変える必要があるなどと言いだしている。憲法議論についての立場は様々にあるとして、少なくとも今それを行う場合ではない。

 また、国民の活動をひたすらに制限すればいいというものでもない。一度個人の権利を手放し得る体制が整ってしまうと、それはいかようにも権力によって悪用されうる。人間は混乱や不安の渦中にあると大きな存在への追従や、上からの統制を求めるものだ。かつてのナチスドイツや大日本帝国はまさに、人々の不安をあおり、国民を分断し、国に従わない者を国民の手で弾圧させ、全体主義社会を作り上げた。その顛末は誰でも知っているように、大破滅である。

・7の歌について

 今回の騒動でも、買占めが起こったが、若者が若者がと年配者が言うなかで、年配者も買占めに並ぶような光景は各地で見られただろう。人間は自己を正当化する中で、立場の違う他者を攻撃する傾向にある。それをどれだけ冷静に、客観的に観察・思考できるのかどうかが肝要だろう。そして、立場の違う人間へと、どれだけ想像力を働かせられるかこそ、真に重要な点なのである。

・6の歌について

 ゲーセンに子どもがいるような光景が、何でもない日常こそがかけがえなく大切なものだったと、それを失ってから気づくことがある。無駄や余計とされるような、さまざまなくだらない文化風俗や、大衆には受けないような諸芸術がある世界こそ、最も平和な世界なのである。今も真っ先に切り捨ての対象となりかけているそれらが無くなったとき、人間の精神はより一層激しく傷つき、虚無と破滅に向かっていく。敗戦直後、人々は印刷されてあるものなら何でも読んだという。貴重な闇市の米が本と交換されたということもあったそうだ。人間が豊かに生きるためには、衣食住のみではいけない。しっかりとした精神の支えとなる文化がなければいけないのである。

・9の歌についてとまとめ

 大震災から九年が経ったが、あの震災から私たちは何かを学べたのだろうか。あの時より、少しでも良い状況に、日本が、世界が、なっているだろうか。死者は言葉を発せない。世界を変革していく責任の全ては生者に懸っているのである。だからこそ、死者を忘れてはならない。その想いが私たちの想像の彼方にあるとしても、私たちは「復旧」と言う言葉で、喪ったものを無化してはならない。災害や戦争を描いた文学の中には、多く死者が登場する。生者に対する責任だけでなく、死者に対しての責任も、私たちは意識することができる。死に安易な意味づけを行うことは、危険性もある。しかし、私はあえて、死者たちの死を無駄にしないように、生者は少しでも、彼らの遺してくれたこの世界を、良くしていかねばならないと言いたい。

 

 

 

 参考文献:長谷川櫂『震災歌集』(中央公論新社、2011年)

 

 

 

2020.4.10. Shiba