Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

学生は「国の宝」ではありません。一学生の主張。【日日所感No.8】

 まず、自己紹介から始めたい。私は現在都内の某大学で日本文学を専攻している学生である。なぜ日本文学を学んでいるかと言えば、日本文学に魅かれたからである。私は特に近代文学を学んでいるが、古典まで含めて、日本の文芸は人並み以上に読み込んでいる自信がある。それゆえに、日本文学・日本文化への敬愛の念もまた、人一倍強いものであると思う。

 それを念頭に置いた上で、私の文章を読むなら読んでほしい。

 

 昨今の新型コロナウイルス感染症に伴って、大学の学費問題が盛んに議論になっていることは周知の事実であろうが、私はどうもその議論のされ方に、違和感を覚えている。

 議論の中心は、施設の閉鎖や授業オンライン化によって、大学がある種の機能不全に陥っているために、学生の学ぶ機会が損なわれていることに対して学費の減免を求めるというものと、感染症の影響でバイトを解雇された、あるいは家計が急変した学生に対して補償を求めるというものの二点であるだろう。それらは実際、必要であると思うし、政策として行うべきであると私も思う。

 しかしながら、学費がそもそも高すぎるという問題も同時に議論されていることに注目すべきであると思う。若者に教育を受けさせることは、憲法にも記された国の役目であるはずなのに、なぜ教育を受けるためにこれほどの高額な資金が必要になるのか、それをよく考える時が来ているのではないだろうか。なぜ多くの大学生が、奨学金と言う名ばかりの借金を背負い、バイトまでして学ばなければならないのか。また、なぜ多くの若者が、「お金がない」という理由で学ぶ機会を損なわれなければならないのか。そういったことも考えるべきなのではないか。

 私は、現在経済的に苦しい大学生への支援はした方が良いと思うし、学費の減免も行われるべきであると思う。だが、そもそも大学へ行くことのできない多くの若者がいるということも、忘れるべきではないと思う。苦学であっても、大学に入学できるということは、その若者は未来を拓く契機を得てはいる。しかし日本には、どんなに望んでも大学に入学することができない若者も多くいる。国の本来の役目としては、全ての若者に対して等しく教育を受ける機会を与えることだ。だから学費の問題というのは、今後も継続して議論されるべきであると私は思う。

 

 さて、ここまでが私の言いたい内容の一つであるのだが、それにも増して主張したいことが私にはある。

 

 以上で述べたように新型コロナウイルス感染症の影響で多くの学生が苦境に陥っていることを受け、「学生に支援を」「学生に補償を」と叫ぶ様々な団体や政治家が出てきた。そのこと自体は良いと思うし、私もそれほど余裕のない一学生として、学生向けの支援策は政治が行うべきであると思う。しかし、その議論の中で、しばしば出てくる言葉がどうしても気になるのだ。

 その言葉は例えばこのようなものである。

「学生は日本の未来を担う存在なので(補償を行うべきだ)」

「学生・子供は国の宝であるから(支援を行うべきだ)」

 私が今から言うことは、恐らく揚げ足取りであるとか、今はそんなことを議論している場合ではないとか言われるだろう。そのような批判は結構である。だが、私としては、言葉の使われ方というのは、その背景にある人間の思考を反映してしまうものであると思うので、慎重に問われるべきであると思う。使われる言葉というのは、思想を反映するがゆえに、やがて実際の行為という形になって表れてしまう恐れがあるのだ。無意識に良かれと思って発した言葉であっても、それを良く再考すると、意図とは異なる意味を持ってしまうこともある。こういったことは、文学に親しみ、言葉の世界に暮らしている者にとっては、当然のことであるが、それに気づかない人も多い。だからここで言っておきたいのだ。

 学生として、率直に言わせてもらうと、私は、日本で生きてきた中で、自分たち学生が「国の宝」であると感じたことはない。なぜなら、「宝」なんて大層な事を大人は言っているが、全く大切にされている感じがしないからだ。大学生なんて、ほとんどの大人にとってはせいぜい安くて替えの効く労働力でしかないだろう。大人は私たち学生の事を、経験が浅いとか知識がないとか言って見下している奴らばかりである。それくらいならまだ良いが、政府は教育に力を入れているとか言っている割に、学費は高くなるばかりで教育にまで経済格差を持ち込んでいる。私たちは多額の借金を背負って大学まで出るが、卒業をしたらしたで今度は低賃金でたっぷりこき使われる。これが日本式の「宝」の扱い方なんだろうか。

 そういうことを言うと、いやいや「である」と「べき」は違いますよ、私たちは学生が本来は「国の宝」であるように扱われる「べき」という話をしているのです。と良心的な大人は言うだろう。しかし、それはそれでどうなのだろうかと思う。なぜ、私たち若者が勝手に「国の宝」にされなければならないのだろう。なぜ私たちの意志の確認もなしに、若者は「日本の未来を担う」なんてことになっているのだろう。なんで私たちが、大人が残したものの後処理をしなければならないのだろう。少なくとも私は、そんなことをしたくはない。

 大人たちは勝手に、学生は将来の日本を引っぱって行ってくれるし、自分たちの老後の面倒も見てくれるし、自分たちが教えて来たことも大事に引き継いでくれるだろうと思っているかもしれないが、それは大いなる自惚れであると言っておきたい。政治や社会が学生を大切にしていないのに、どうして自分たちが将来面倒を見てもらえると思っているのか。あまり若者を舐めるんじゃない。私たち若者は、あなた方がしている悪い事も、あなた方が後ろめたい事も、全部見ている。あなた方が若者に対してしている仕打ちを、全部知っている。それでもあなた方は、「若者は日本の未来を担う」なんてことを平気で言えるのか?

 小学校には今も道徳の授業がある。ああいうぬるい道徳精神を植え付けて、多くの若者は「日本のために頑張るぞ」みたいな洗脳を受けてしまっている。自分たちが大事にされていないのに、ひたすら上の者に尽くしていくみたいな奴隷根性を押し付けられて、それを内面化してしまっている。これは虐待を受けているにも拘わらず、「親を愛している」と言ってしまうような子供の精神に似ていると私は思う。大人は、だから安心して、「若者は国の宝」「若者は日本の未来を担う」なんて言って、日本の今後を無理やり背負わせるようなことをするんだろう。でも、私は騙されはしない。

 私は、若者を勝手に「国の宝」とか、「未来を担う存在」であるとか言うのは無責任すぎると思う。

 私たち若者に日本の未来を担ってほしいなら、若者には誰でも充分な教育を受ける機会を与えて、若者が残したいと思えるような社会や文化を残すべきではないのか? 若者は皆奴隷道徳を植えつけられているからこんなことは言わないけれど、あなた方の墓を守る存在に対してそんな態度でいいのか? 私たちは将来あなた方の悪行を全て墓碑銘に刻み込み、かつその墓を鳥の糞まみれにすることもできるんだぞ?

 もちろん私だって、少なからず若者のために活動している大人がいることを知っている。また、個人的な面で言えば、私は両親や祖父母や、学校の先生方に大変お世話になってここまで生きのびることができた。そのことは感謝してもし切れない事実である。しかし、社会全体として、あるいは政治の問題として、私は日本の若者が大事にされているとは言えないと思う。だからこんな仕打ちを受けてるうちは、私は若者には「日本の未来を担う」責任も義務もないと思う。そして大人は若者に「日本の未来を担え」など言う資格はないと思う。

 そもそも、言葉の用い方として、若者が「国の宝」だとか「日本の未来を担う」とか言うと、まるで若者が将来、皆日本という国のために働かなければならないという錯覚を招く。けれども、必ずしもそんなことはないはずだ。どんな思想を抱いていようと、未来にどんなことを行おうと、教育は皆等しく受けさせるのが国の役目だと私は思う。国のために役に立つから若者を育てる、という考え方は、本当の意味での教育ではないと私は思う。国の未来を担おうが担うまいが、国の宝になろうがなるまいが、教育は等しく受けさせること、それが国の責任じゃないのか。

 

 最後に、学生諸君に言いたい。奴隷道徳を植えつけられているせいで、内面まで反抗心が芽生えないように虚勢され、自我を腐らされている学生が少なくないと思うが、そろそろ目を覚ますべきではないか? 私たちは舐められているままでいいのか? 私たちは「未来」という重要な鍵を握っている存在なのだ。私たちはこの国の未来をいかようにもできる力がある。この国をよりよい方向に導くこともできるし、その真逆を行うこともできる。私たちは、自分の力を信じようじゃないか。そして大人たちの不当な行いや要求には断固として反逆の姿勢を見せ、私たちの手で、私たちの若い力を復権させよう。大人たちの舐め腐った無責任な態度に喝を入れよう。ふざけるんじゃねえ! と言おう。そして、私たちの自由を、私たちの手で掴み取ろう!

 

最後に、私の大好きな徳冨蘆花の「謀叛論」の一部を引用したい。これは、もう百年以上も前に、若者に向けて放たれたメッセージであるが、今なお若者に訴えかける不朽の名文であると私は思う。

 

諸君、謀叛を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなはちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。

 

 

 日本の若者よ、謀叛を恐れないでほしい。

 

 

 

参考文献:徳冨健次郎(蘆花)『謀叛論』(岩波書店 1976年7月)

 

 

 

2020.5.9.Shiba