Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

あの夜のこと。命のこと。(全編)

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 僕が最近、いつでも尾崎の話をしていて、もう聞き飽きたよと思う人もいるだろう。それはその通りだと思う。熱狂的なファンみたいになってしまって、少し気持ち悪いかもしれない。それはわかってる。でも、僕がそれだけ尾崎に心酔するのには理由がある。

 あの夜、僕の心が滅茶苦茶になって、何もかもわからなくなったあの夜、僕の心と体をぎりぎりのところで支えて、生きさせたのは尾崎の歌だけだった。僕には居場所がなかった。東京の住まいにも、実家にも帰りたくはなかった。

 僕はその日、弟と会っていたが、その後で例の騒音の苦情について管理会社から知らされた。僕は色々の損害が自分に出るというよりも、僕に対して猜疑と憎しみを向ける人々のすぐ近くで生活しなければならないことが、なによりも苦痛だった。僕は最近、オンラインで友達や担当医の人など、色々な人に話を聴いてもらうことで、かなり救われていた。一か月以上も不眠を引きずり、悲しみの感情に囚われていた僕はもう、限界だったのだ。そこに、最後の一押しだった。僕はもう何もわからなくなって、家に帰った。食べるものがなかったのでカップラーメンを買っていた。どうやって買ったのかも、どうやって家に帰り着いたのかもわからない。それほど僕は追い詰められていた。

 家に帰ってお湯を沸かした。カップラーメンを待った。パソコンを付けた。なにか音楽でも聴こうと思った。BUMP OF CHICKENの「ギルド」やフジファブリックの「茜色の夕日」が、僕のその夜時点までの救いだった。ロックを聴いていた。ブルーハーツも好きだった。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTも好きだった。ASIAN KUNG-FU GENERATIONサカナクションも好きだ。相対性理論もたまに聞く。神聖かまってちゃんもかなり良い。BOOWYも好き。東京事変もamazarashiも好き。とにかくロックが好きで、なんでかっていうと、ロックって絶対に弱者の味方だと思ったから。世界には色々な弱さがある、でも大体、様々な人間的な弱さに通じ合うのがロックだと思う。弱い人間が、それでも人を愛そうとすること、それがロックであると思う。だから僕のYouTubeのおすすめにはロックばかりだった。そこに、その夜、尾崎の「シェリー」が唐突に現れて来た。

 僕はそれを聴いた。カップラーメンを食べながら聴いた。別に大した気持ちで聴いたのではなかった。なんとなくの時間つぶしだった。だらだらと聴いていた。尾崎のライブ映像だった。見ているうちに、泣きそうになりながら尾崎が歌っているような気がした。すると、彼の言葉の一つ一つが、僕の心の中の奥底にまでしみわたってくるのを感じた。その時、僕の目からぼろぼろと涙があふれ出た。どこへも行けない僕を、どこにも居場所がない僕を、尾崎は抱きしめてくれた。「お前はここにいていいんだ」という、僕が今まで一度もかけられたことのない言葉を、尾崎が言ってくれたような気がした。尾崎の鋭い叫びが、僕にはこれ以上ない優しさだった。

 僕は声を立てて泣いた。幼いころから堰かれていた思いが、どっと洪水のようにあふれ出た。僕は泣き続けた。何度も、何度も。涙が眼鏡を濡らした。服を濡らした。それでも泣き続けた。あらゆる青春の挫折を思い出した。叶わなかった恋、果たせなかった約束、裏切ってしまった期待、そういう全てを思い出した。男だから、泣いちゃいけない。そういう風に教えられた。男なんだから、強くなきゃいけない。賢くなきゃいけない。なんでも自分でできないといけない。お前は男なんだから、長男なんだから。いい大学に行って、いい会社に行って、いい奥さんを貰わないといけない。そんな風に教えられてきた。それらが全て、僕を縛っていたのだ。

 尾崎もまた、縛られていた。だから、本当の自分を求め続けたのだ。

 ひとしきり泣いたら、僕はここにはいられないように思った。どこへでも行ってしまおうと思って、玄関を飛び出した。食事のゴミも片づけてないまま、財布と鍵と上着だけをもって、外に出た。そして、なんとなく南へと向かった。帰り道に付く人々とすれ違った。そのたびに下を向いて歩いた。誰も僕を見ないでくれ、そう思った。

 護国寺まで来た時、雨が降り出した。護国寺には元禄期から残る大門がある。その下で、「羅生門」みたいに雨宿りをしようと思った。寺に入ると、雨は弱まった。そして、そのまま上がってしまった。護国寺には猫がいる。その日も道の真ん中で寝ている猫がいた。一匹だった。僕を見るとにゃあおと鳴いた。僕が近くに座ると、猫は逃げなかった。猫は僕をじっと見ていた。でも、僕に害がなさそうだとわかると、そっぽを向いて欠伸をしていた。僕はそのまましばらく、猫と沈黙していた。

 猫が眠らなさそうだったので、僕は尾崎の歌を歌ってやった。できるだけ優しい声で、恋人に聴かせるように。シェリーを歌ってやった。僕は歌ってるうちにまた、泣いてしまった。猫は僕を見ていた。この人間は、何がしたいんだろうという目で見ていた。でも、猫の偉いところは、僕が歌いきるまでそこにいてくれたことだ。僕は猫にあいさつをすると、また音羽の通りを南へと歩いて行った。

 音羽の通りは静かであった。通行人もそれほどいなかった。タクシーのテールランプが、雨に濡れた道路を赤く染めては、音もなく消え去っていく。九時半を過ぎていた。まばらに営んでいる店々の明りが、僕にはまぶしかった。涙の跡が残る頬を帽子で隠して歩いた。

 泣きすぎて腫れた目に、六月の夜風は涼しかった。

 僕はこの道を南に、ひたすら南に行けば、やがて海に着くだろうと思っていた。海が好きなわけではなかった。でも、そこまで行けば何か見えるだろうと思った。僕はもう丸二日寝ていなかった。食事も一日一食くらいしか食べてなかった。だから、歩く足取りは不安定だった。人とぶつかりそうにもなった。そのたびに人が僕を責めるように思えた。街が僕を責めていた。僕はこの世界の人間ではないような気がした。

 海に着いたら、それがどれくらい先になるかわからなかったが、飛び込んでしまおうかと思った。そうすれば、海が僕の居場所になるような気がした。

 途中で僕はトイレに行きたくなったから、コンビニに寄った。トイレを借りるだけじゃすまない気がして、ジャスミン茶を買った。飴も買った。これで少し水分と糖を取れば、歩き続けられると思った。

 江戸川公園まで来た時、僕はそこのベンチに座り込んだ。そこに横たわりたかったけれど、ホームレス対策で座席が一人分ずつで分けられていた。僕はホームレスの心が少しわかった。どこにも行き場がなかった。外でも、公衆衛生だか街の外観だかの政策で、ベンチで寝ることも許されない。僕はそんな人々が日本にもまだ多くいることを悲しんだ。彼等の悲しみは、金がない事でも、家がない事でもない、人間にとって本当の悲しみは、自分の居場所がなくなることだ。つまり、愛が与えられないことだ。

 僕はまだ歩けた。そこで休んでから、また歩き出した。海までは遠かった。道行く人々が皆、顔のない人形のように見えた。街が色を失っていた。僕はなぜ歩いているのか、なんのために歩いているのか、何もわからなかった。疲れ果てて、頭痛がした。動悸が激しくなった。息苦しかった。もう死んでしまいたいと思って、涙がでた。

 僕はどうしようか、最後に迷っていた。このまま歩き続けて、死んでしまおうかと思った。僕は人生の最期は、こんな感覚なのかと思った。死がすぐ近くにあるように感じた。未来という時間が信じられなくなった。僕の人生はもう、今夜だけしか残されていないと感じた。強く、そう感じていた。

 ふと、両親の顔が浮かんできた。僕がこんなことになっているのも、二人に原因があるのはもう知っていた。僕は愛されなかった人間ではないのだ。愛され方を間違えてしまった人間なのだ。だから僕は、いたずらに両親を責めることもできなかった。僕は、ただ幼い自分の心を抱きしめてほしかった。少しだけ、そんな期待をしていた。

 東京には、居場所がないことはもう、わかっていた。この先に待っているのは、何らかの形の死であると悟った。だから僕は、ひとつの決断をした。今思えばこの決断こそ、僕の人生最大の決断だった。僕は群馬の実家に帰ることにした。

 また雨が降っていた。東京の街が僕の背中を押して、僕は近くの地下鉄の駅に入った。有楽町線だったと思う。池袋で乗り換えて、JRへ。時間は10時を過ぎていた。群馬行の電車はまだあった。僕はそれをホームで待った。何もしていないと押しつぶされてしまいそうな心だったから、僕はスマホで尾崎の曲を聴いた。「僕が僕であるために」「シェリー」を繰り返し聴いた。人前でも嗚咽しながら泣いた。僕にはもう、尾崎の曲の中にしか居場所がなかった。尾崎は全てをわかっていた。愛されない人間の苦しみをわかっていた。そして彼は、それでもなお、愛されるべき人間たちのために歌った。

 電車がホームに入って来た。僕は停車位置ではない場所にいた。ベルが激しく鳴る。僕は焦って走り出した。涙が止まらなかった。様々なしがらみを東京に置き去って、僕は電車に駆けこんだ。

 車内は北へと帰る人で満たされていた。満員ではなかったが、座席は大方埋まっていた。こんな夜遅くまで、働き、あるいは何らかの事情で皆生きているのだと思うと、僕は言い知れぬ悲しみに胸がおおわれた。尾崎がイヤホンの奥で泣くように歌っていた。疲れた人々の横顔が、僕の目の底に焼き付いて、人生のむなしさを思わせた。尾崎は、本当の愛を歌っていた。この世界にはまだ、愛があるのだろうか、本当の愛がどこかにあるのだろうか、そう思った。僕は、その本当の愛を見つけるために生きているのだろうか。

 電車が初夏の夜を揺らしていた。僕はその緩やかな夜の波にのまれて、涙を流していた。

 電車は夜の闇のなかを進んでいく。隣に座っていた老人が、少しうっとおしそうに僕を横目で見ていた。でも、車内は静かに、僕の涙さえも、僕の悲しみさえも、受け入れてくれたようだった。そうしていつしか、僕は気を失うように少し眠っていた。

 北へ向かうほど、乗客は減っていった。籠原を過ぎたあたりから、空席の多さが目立った。僕は思いついては尾崎の曲をリピートし、何度も何度も、彼の消え入りそうな叫びを噛み締めた。実家の庭を思い出した。あの場所に、僕の居場所はあるだろうか。幼いころから僕を愛するふりをして、縛り付けた両親に、僕はどういう顔をして会えばいい。あの二人は、どういう思いで僕を育てて、今、どういう思いで僕を見ているんだろう。僕は、いつになったら本当に愛してもらえるんだろう。

 僕は今、どこにいるんだろう。どこに行けば、いいのだろう。

 電車は県境を越えて故郷の地へ入った。細い雨がチラチラと光っているようだった。もうすぐ実家の最寄り駅に着く。僕は何だか、どうすればいいのかわからなかった。

 人気のない真夜中のホームに、電車は静かに滑り込んでいく。ドアが開き、暗闇が口をのぞかせた。僕は倉賀野で降りた。そこが僕の故郷だった。誰もいない街を歩いていく。小学校の前を通り過ぎる。小学生の頃毎日歩いた通学路に沿って家まで行く。あの頃の僕は、どんなふうに街を見ていたのだろう。今では何もかもが小さく見えた。

 大通りには車がまばらに通っていた。道は全て繋がっている。この愛憎混濁する故郷の道も、果てしなく辿っていけば東京に着くと思うと、なんだか不思議だった。街灯が雨に濡れた街を照らした。虫が音もなくその光に飛び集まっている。

 僕の実家は、その地域で一番大きな神社の向いにあった。神社の前の通り、つまり僕の実家の前の通りが、大通りと交わるところには、大きな鳥居のようなものがあった。僕の実家は恐らく、広い意味では神域の一部にあるのではないかと思っている。丹塗りの柱は、夜の闇の中でほの明りに照らし出され、神妙な趣を醸した。

 神社の門前に立つと、奥の社が琥珀色に光に包まれていた。白と赤と黄色の中間のような色だった。時間が止まったような静寂さだった。幼いころ、この神社の境内でよく遊んでいたことを思い出した。祖母が僕の事をよくかわいがってくれた。それは今でも変わらない。僕は父母には複雑な思いがあるが、祖父母には愛情しかもらったことがない。初孫だから、とことん可愛がられたし、それでよかった。僕は祖父母が好きだ。父母よりもずっと。

 実家の庭に着いた。僕の実家は、通りから入って奥に長く庭が広がっている。手前に祖父母の家、奥に父母の家がある。庭は繋がっているが、建物が違うということだ。その他に農具や自転車などを入れておく物置と、祖父母の古い品々が収められている納屋、そして納屋と同じ形で、昔は祖母が大正琴の教室を開いていた建物がある。祖母は大正琴の師範で、小さいころは僕も弾かせてもらった。学校から帰ると大正琴の独特な渋い響きがよく聴こえていたことが懐かしく思えた。あの頃にはどうやっても戻れないのだなと思った。

 祖父母の家には電気がついていたが、恐らく寝ている時間だろうと思った。もう午前零時を過ぎていた。父母の家、つまり僕の実家の方も、まだ電気がついていて、テレビの音が洩れていた。

 玄関の鍵は開いていた。ここで入れば、まだ今日は疲れた体をベッドで癒せると思った。それでも、僕は父母のせいでこんな自分が出来上がったことを知っていたから、入りたくはなかった。二人が僕に気付いて、僕の育て方を間違えたことに気付かないうちは、僕はもう彼等と和解はできない。彼等と口を利くこともできないと思った。

 リビングの窓から温かい光が洩れ出している。さっきから小雨が降っていた。半袖の先に出た僕の腕が、六月の雨に濡れて、寒さを感じた。今入れば、今入れば、今入ればと思ってみても、僕の殺された心は、頑なにそれを拒んだ。僕は踵を返して、庭の石ブロックに座って休もうとした。危険なものが置いていないか確かめるために、携帯のライトをつけた。すると、そのブロックの上には数匹のなめくじがうねうねとうごめいていた。

 やはり家に入ろうともう一度玄関の前まで行ったとき、家の中から笑い声が聴こえた。父と母のものだった。テレビ番組を見て笑っているのだろう。僕はなんだか、もう心が無くなるような気持がした。僕はその日、両親への反抗のために、家族の連絡ラインを無言で抜けていた。そんなことしたことない僕だったから、二人は驚いて落ち込んでいるだろうかと思っていた。何かの奇跡を期待していた。でも、彼等にとっては、僕がこうやって一人で苦しんでいるのも、全く日常茶飯事なのかもしれなかった。もう僕は無になった。僕の信じるものは何一つなかった。僕は死ぬことが怖くなくなった。

 僕は祖父母の管理している納屋の前に座った。軒が短くて、雨はしのげなかった。そこで寝ようと思った。明日には冷たくなって死んでいるかもしれないと思ったけど、それもまたいいなと思った。僕は死にたかったわけではないが、生きたいとも思わなかった。誰にも愛されないなら、生きていても意味がないと思った。横になるほどのスペースはなかったから、ひざは立てて横になった。背負っていたバッグを枕にした。ペットボトルやペンケースなどが乱雑につまって、それがゴツゴツと当たり頭が痛くなった。雨が顔にかかっていた。眼鏡に水滴が滲んで、夜の闇さえも見えなくなった。僕は、死ぬんだろうかと。

 やがてリビングの電気は消えて、父と母はそれぞれの寝室へ行った。二人はある時期から一緒の部屋では寝なくなり、母は二階、父は一階で寝ていた。その理由は知らなかった。知りたくもなかった。僕は玄関の施錠の音を確かに聴いた。これでもう戻れなかった。僕はしっかりと一人になった。

 母が寝室でなにか独り言を言っていた。その内容は聞き取れなかったが、僕の名前が出たような気がした。そしてその後、母のすすり泣く声が聴こえた。なんで泣いているのか僕はわからなかった。僕がもう死んでいるかもしれないとでも思っているのだろうか。それならそれを事実にしてやりたいとも思った。でも、僕はまだ母の愛を全く否定しきることも出来なかった。僕はもう、何もかもがわからなくなって、ただ座っていた。

 そうして二時間くらいそこにいた。途中、あまりにも孤独に耐えきれずに尾崎の歌を聴いた。眠れるかもしれなかったが、眠ると終わってしまいそうだったから、尾崎の歌を聴いた。自分でも歌った。歌えば誰かが気づいてくれると思った。でも、田舎の無情な雨の音は僕の存在までも消し去った。誰も僕には気づかなかった。僕は泣きながら尾崎の歌を歌った。自分の過去のすべての思いが、その涙に詰まっているような気がした。

 二時間が経って、僕は本当に体の芯から冷え切った。僕は心のない土くれのようになっていた。これで死ぬんだと思った。案外、心は安らかだった。そうして僕は死の方へ傾いていくはずだった。そこから僕が取った行動は、僕自身にとっても意外なものだった。

 僕は寒さと極度の疲労から、生命の自衛本能を取り始めた。僕は祖母の教室になっていた建物の戸を開けようとした。それはがたがたと建付けの悪い音を立てて開いた。昭和平成令和とこの一家の歴史を一隅で見守って来た建物だった。今はどこでも見ることのない古い電気スイッチを押すと、十秒ほど遅れて電気がついた。僕はその中に入って、大正琴のお稽古のためのパイプ椅子に座った。

 雨の寒さからはしのげた。僕は少し横になりたいと思った。もう午前三時くらいになっていた。夜の大半を外で過ごした後だったから、僕は疲れ果てていた。パイプ椅子には座布団が付けられていたから、それを引きはがして枕にした。畳は硬かった。背中が痛くなってあまり寝られなかった。僕はまた尾崎を聴いた。尾崎を歌った。そうやって何時間も過ごした。

 視界が常にぼやけていた。夢の中にいるような、あの感じ。これは夢かもしれないと思った。涙ばかりが出た。いつのものかわからない壁掛け時計が、ゆっくり、ゆっくりとしか進まなかった。今はその苦しみを噛み締めろと僕に言うように。時間が止まるほどの遅さで僕に夜の重さを押し付けた。人生の重さだった。僕の二十一年間の過去のすべての重さだった。

 僕は零歳のとき、障害を抱えて生まれた僕を思い出した。僕は三歳のとき、弟が生まれて寂しい思いをした僕を思い出した。僕は五歳のとき、父親に殴られ蹴られていた僕を思い出した。僕は八歳のとき、父親の愚痴ばかり母に聴かされていた僕を思い出した。僕は九歳のとき、父親が酒を飲んで暴れる父親に恐怖した僕を思い出した。僕は十一歳のとき、同級生とうまくやれなくて毎日泣いていた僕を思い出した。僕は十三歳のとき、初めて恋をした僕を思い出した。僕は十四歳のとき、人に嫌われるつらさを知った僕を思い出した。僕は十五歳のとき、ネット上でばかり生きていた僕を思い出した。僕は十六歳のとき、自分が取るに足らない人間だと気付いた僕を思い出した。僕は十七歳のとき、人生ではじめて夢を持った僕を思い出した。僕は十八歳のとき、夢の全てが破れて何も信じられなくなった僕を思い出した。僕は十九歳のとき、それまでとは違う世界に出会った僕を思い出した。僕は二十歳のとき、自分が何者なのかをがむしゃらに求めていた僕を思い出した。

 僕は二十一歳の今、自分の人生全てを思い出していた。

 街は朝へと向かっていく。世界はまた僕を殺せなかった。いや、僕を殺せなかったのは僕自身かもしれない。午前三時半、僕は頭痛に耐えきれなくなって家を出た。どのみち眠れないのだ。疲労は限界だし、それでもここではないどこかへ行きたかった。僕は自分で自分の人生を決めたかった。誰にも縛られたくなかった。

 外はまだ暁闇の前だった。通りには人の影もない。たまにトラックが通り過ぎていく。それだけだった。僕は町内を一周しようとした。母校の中学の前を過ぎ、同級生の友だちだったやつの家を過ぎ、角を曲がり、和菓子屋の前を過ぎ、行く当てもないまま、夜と朝の間の街を歩き回った。僕はもう何も見たくないし、感じたくなかった。だから歌った。尾崎の歌を歌いながら歩いた。できるだけ大きな声で歩いた。午前四時前の街、尾崎豊の曲を歌いながら道路の真ん中を歩く二十歳過ぎの男。その異常さになんとなく気づいていた。でも、僕はやめられなかった。この冷たい街の風に、僕は歌い続けるしかなかった。

 空が赤かった。北の空だった。夜明けにはまだはやかったから、火事でもあるのかと思った。それにしては街が静かだった。僕は幻覚でも見ているのかもしれなかった。自分が正しいか間違っているのか、それさえ確かめようがなかった。僕はそのまま歩き続けた。疲労も度を超すと、体は何も感じなくなっていく。脳が完全に機能を停止したようだった。止まってしまった脳、止まってしまった時間。僕はあの頃から、全く変わってやしない。過去のトラウマを全て引きずって、僕は歩き続けてきた。その重さを、体の全てで感じた。

 僕は家に帰っていた。動物の帰巣本能なんて信じないけど、僕の足はまた同じあの家の庭に戻っていた。僕は仕方ないから、またさっきと同じ建物に入った。ガラ戸が祖父母を目覚めさせないかとびくびくした。でも、目覚めても欲しかった。誰でもいい、はやく僕を見つけてほしかった。僕にとっての愛は、まず僕を見つけてもらうことだと思った。僕はここにいる。ここにいる僕を誰か、見つけてくれ。そう思っていた。

 そこからまた僕は歌を歌っていた。夜が明けるまでずっと歌っていた。それしかやることがなかった。お腹が減っていた。昨日の夜のカップラーメンから何も口にしていなかった。昨日の昼間に買ったグミ菓子の残りを一気に口に放り込んだ。色々な化学的な果実の香りが口内に広がった。ジャスミン茶の残りを飲んだ。口のなかが謎の風味で満たされた。僕の悲しみはそのままだった。

 夜を透かしたガラスに映る僕を見た。髪がくしゃくしゃで、涙で目は腫れていた。瞳は綺麗だった。口は半開きで、体はぎくしゃくしたロボットみたいだった。僕は壊れていた。生まれたときから、ずっとそうだった。僕は、出来損ないだった。でも今は、その出来損ないが、これ以上ないくらい、愛おしく思った。こんなにボロボロになるまで、僕は頑張ったのだ。もう、これで終わってもいいように思った。壊れた出来損ないは、ここで死んでもよかった。

 僕は待っていた。四時半を過ぎた。外に出てみた。鳥たちのさえずりが高く響いた。朝靄が僕を包んでいた。街を包んでいた。世界は新しい一日へと向かっていく。自然というものの無情な強さを感じた。

 そのまま僕は椅子に座って待っていた。すると、祖父母の家の戸が開く音がして、そのまま祖母が僕のいる建物の前に来て、僕の名前を呼んだ。その瞬間、僕の一晩の戦いは終わった。僕は長い一晩の戦いに、僕の人生に対する戦いに、そして僕の生命に対する戦いに、耐え抜いたのだ。僕は勝利した。勝った気などなかったが、それは確実に僕が生き抜いたということの証だった。僕は祖母に連れられて祖父母の家の中に上がった。

 祖母がお茶を出してくれた。祖父母は僕を見て、心配をしてくれた。でも、必要以上に色々と詮索することはなかった。僕はお茶を飲みながら、少なくともここには僕の居場所があると思った。ただ僕という存在を、そこに置いてくれる場所。そんな場所が僕には必要だった。

 祖父母としばらく話した。できるだけ正直に全て話した。就活のこと、卒論のこと、住まいのこと、不眠のこと、体のこと、過去のこと、そして、父母には会いたくないということ。

 祖父母は建前上、僕に父母に会うことを勧めたが、僕の様子を見て察したようで、無理強いはしなかった。僕はお茶を飲みながら、庭に集い来る鳥を眺めていた。スズメ、ハト、ツバメ、カラス。蝶が羽ばたくように電線の上で踊る鳥がいた。オナガだった。オナガは強い声で鳴く。悲痛なほどの声で鳴く。僕にはそのオナガの声が心地よかった。僕も今、叫ばないといけない時期にあるのかもしれないと思った。

 花が朝露に濡れる。鳥は空に歌い合う。涼風が木々を揺らせば、また新しい日の光が、世界を包む。そんな世界で、僕がまた新しい一日を過ごし始めたことが、僕が死なないで生き延びたことが、そのすべてが、愛おしくて、奇跡的で、運命のように感じて、僕は涙した。

 朝食の時間だった。祖父母と一緒に食べるのも気が引けたし、父母は顔も見たくなかった。僕は疲労の限界を越した体で、大通り沿いにあるマックに行こうとした。そこで、あることに気付いた。昨晩、混乱の中で用意もせずに出てきたため、電車賃で所持金のほとんどを使い切ってしまっていた。僕はほぼ無一文だった。祖父母に向かって、ぼそっとそんなことをぼやいたら、祖母は台所の奥にある棚から、一万円札と五千円札を僕に渡してくれた。これでなんとかできるかい、と祖母は僕の目を見ていった。僕はうなずいた。

 僕は家を出て通りを歩いた。まだ六時過ぎくらいだったから、人はそれほどいなかった。僕はまた、痛みすら感じなくなった体を引きずって歩いていた。マックには客がいなかった。僕は適当に目についたセットを頼んだ。珈琲もマフィンも味がしなかった。僕は外を眺めて頭を掻き乱した。頭の奥で虫が湧いているような違和感をずっと覚えていた。痛くて、眼が空かなくなった。僕はでも、朝日の中で生きてしまった自分を感じた。僕は適当にそこで時間をつぶしてから、またあてもなく歩き出した。

 僕は僕の通っていた保育園の方へ向かった。近くに大きな古墳があった。その周りは畑になっていた。僕はその古墳を遠くから眺めた。保育園には、もう幼児たちが親に連れられて来ていた。僕も父親に連れられて保育園に通っていたことを思い出した。僕はどんな子供だったろうか。僕はどんな思いで、どんな顔をして生きていただろうか。僕はいつ、こんなダメなやつになったんだろうか。僕はどうしたら、這い上がっていけるだろうか。

 僕は結局、家に戻ることにした。

 祖父母が僕を出迎えた。また僕は祖父母の家に上がった。少し話をして、ぼーっとテレビの時代劇を眺めていたら、僕は眠くなって、そのまま畳の上に横たわった。僕は気絶するように少し眠った。気が付くと、祖母が薄手の布団をかけてくれていた。僕はまた眠りについた。小さなころの僕は、泣き虫でねむたがりだったとよく聞いていた。僕はあの頃から、全く変わってはいなかった。僕は未だに泣き虫で、ねむたがりで、満たされなかった愛を求めている。

 僕が起きたとき、祖父母は庭で父母と話をしているらしかった。僕が帰っていること、様子がややおかしいことなどを話しているようだった。手のかかる子をどうしようかと相談しているようだった。二十一にもなる男が、こんな情けない幼児みたいなことをしていておかしかった。でも、僕という存在は、結局幼児なのであった。

 父母がどういう態度をとるのか、僕には知れなかった。母は過剰に僕を庇護しようとするし、僕を束縛し、僕を望ましいように変えようとした。父は僕に厳しくて、僕の心なんかお構いなしに怒鳴り散らした。僕はそういう二人を知っていたから、もし今度もそんなことをしたら、一生ここには帰るまいと思った。でも、父母は僕をどうしようともしなかった。だから僕は安心した。僕はそのまま、寝ているふりをした。

 母が仕事に向かった。父は休みの日だった。僕は九時ごろまで祖父母の家にいて、それからしかたなく父母の家に戻った。僕は自分の部屋に入ると、その無機質な空間にしばらく佇んだ。大学受験の参考書がばかみたいに残っているのを見た。東大の古典、東大の数学、東大の世界史。僕には望みが高すぎたのか。結局何もかもできずに、僕の努力は無駄になった。僕は全てにおいて失敗し、全てにおいて敗北してきた。僕の人生は、空っぽだった。

 僕はバッグを置くと、その表面にてかてかした跡がいくつもあることに気付いた。僕のズボンにもその跡があった。僕はそれが、ナメクジの通った跡だと気付いた。特に汚いとも思わなかった。僕は外で寝ているとき、ナメクジにたかられていたのだ。アルコールテッシュでそれを拭き取った。全てではないが、一応取れた。僕は僕にこびりついた過去の過ちの影も、同じように消し去りたいと思ってこすっていた。でも、僕の過ちは、僕の心の影は、消えることはなかった。それを背負って生きることの苦しみを感じた。僕は一生、この苦しみと闘い続けるのだと思った。

 その日は金曜日だった。カウンセリングの日だった。僕はその時間まで待った。そして電話がかかって来た。僕は何を話したのかは覚えていないが、色々と感情を全て吐き出してしまった。僕は途中で、泣きだしていた。泣きながら話していた。尾崎の話もした。尾崎が僕を救ってくれたのだと言った。先生は優しく話を聴いてくれた。心配もしてくれた。精神科にかかる際のために状況説明書みたいなものも書いてくれると言った。僕は少し気持ちが楽になった。僕は電話を切っても、まだ泣いていた。その後も何度も何度も泣いた。

 僕はその日、昼から十年来の親友に連れられてご飯になど行った。その時も色々と悩みを聴いてもらった。その日はすぐに東京に帰るつもりだったが、父母が僕に対しての態度を変えていて、あまり干渉することがなかったから、そのまま実家で一泊した。その次の日には東京に戻って、その日も違う友人とご飯をしたり遊んだりした。それが大体、今書いているこの時点から一週間前のことである。僕は最近、本当に色々な人に助けられて生きていると感じる。僕は少しだけ、前に進めているような気がする。僕は本当にたくさんのことで勝手に苦しんで生きている。でも、いつかそのすべてが無駄ではなかったと思えるようになりたい。

 僕は生きる。僕自身のために。僕は生きる。僕以外の誰かのために。僕はまだ、死ねない。