Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

休日、生と死、そして精神について

注:この文章は、私が約一年前(2019年7月21日)に書いたものを推敲したものである。つまり大学3年生の私の文章である。ゆえに現在の私の思想とは異なった部分もある。注意されたし。

 

 もうしばらく自分の文章を書いていなかった。自分で文章は書いていたし、それは自分の文章には間違いないのだが、自分が好き勝手に文章を書いてはいなかった。六月末からレポートが忙しくなり(今期はなんと八本(正確には九本)のレポートが課された)、それに追われてばかりいた、本日やっとそれに区切りがつき、久々に自分の文章を書いてみようと思いここに筆をとり始めた。

 レポートに関して少し述べておきたいことがある。私は今学期、十一の授業を取っている。そのうち四つが試験を実施した。試験を実施した授業の二つはレポートも課した。ということで八つものレポートを書かねばならなかった。正確には演習ではレジュメ用の文章とレポート用の文章で二度書かねばならないので、九本ともいえる。それは措いて、さすがの私もこれだけの量のレポートには骨が折れた。それなりに頑張って調査・考察をして書いたつもりだが、細かい論の展開や形式の面でかなり粗雑な面が現れたと思う。もう提出してしまったのでどうしようもないが、レポートの内容・質ともにそれほど良いものではなかったと思う。もちろん、それでも一二年次に比べてほぼ劣ることはないと思う。しかし、当然三年にもなれば高等な質のレポートが求められる。成績のために勉強しているわけではないが、それでもかなり心配は大きい。

 ところで、そうはいっても私はこの半期、様々な面での知識が増えたと思う。読書も相当に行った。それ自体は良いと思う。しかし同時に、生半可に知識が増えたことにより、迷うことも増えたと思う。レポートを考える際も、あれやこれやと様々な側面で論じられることを考え、この道一本と決めて進むことができなくなった。初心のころは、知識が限られていたため、自分に書けることを全部ぶつければそれでよかった。今はそうはいかない。自分の中の選択肢から最良を選び取らねばならない。ここに来て私は、初心をわするるべからずという格言を身に染みて感じた。大切なことは、知識ではない。その先にある自己である。情熱である。学ぶことが増えたから、より一層、丁寧にひとつひとつをこなしていかねばならない。日々心を入れ替えて、初心に立ち返り、謙虚実直に生きていきたい。

 さて、私はそのように知識をたくさんに得ているので、当然色々と思考することが多い。起きている時間は、読書時間や授業時間も含め、ほとんど思考を巡らせていると言っても良い。かといって、何か結論が出ているわけではない。私は結論を急いではいない。ゆっくりと亀のように牛のように進みたい。漱石が芥川か何かにそんな手紙を送っていたような気がする。久米正雄だったか。まあ忘れたが。とにかく、思考はするが結論はしない。全てが仮説に留まって証明を待っている。私の大好きなエマーソンの著書の中に、「目が一筋の光を捉えたならば、それはその光を証明するためだ。」という言葉がある。私の信ずるところはまさにそれだ。自分だけの光を常に追い求めていたい。

 しかし、そうはいっても日々繰り返される思考の中で、各々の考えを保持していくことは難しい、ともすれば、それは繁雑さに押し流され、二度と戻らない無意識の淵へと堕ちてゆくかもしれない。だから私は、書いていたい。どんな些細な内容でも書き記しておきたい。中国の古代の儒者が、聖人の言には劣る、取るに足らないものではあるが、庶民の言説であってもすべて書き留めようとしたみたく、私もまた、どんな些細な光であってもそれを捉えておきたいと思う。エクリチュールは保持を可能にする。文学の走りは日記であったとも言われている。書くことから始まることもある。だから今ここに、今の私の姿を、記しておきたい。

 そういうことで、今回の「思想雑記」(注:私が自分の思想などを書き留めるために作ったシリーズのようなものである)も、私が最近考えることの一片を示したい。とても小さなテーマだから、すぐに終わってしまうだろう。壮大な仮説というよりは、もうすでに結論に近いが、掘り下げたりテーマを広げたりすればかなり面白い観点になるかもしれない。少なくとも、私の知る古典の名著や現代思想においても、あまりこの手の議論が主流にはない。

 何かといえば、休日ということについてである。より狭めて言えば、人間に休日が必要か否かという議論である。

 休日とは、なんだろうか。休みの日である。それはそうであるが、人間にとって休日とはどのような意味・価値を持つものであろうか。このような問いを持った理由は、二つある。一つには、野生動物には休日というものが存在しないだろうという点である。文明社会に生きる人間が、野生動物と同じであるとは私は思わない。しかし、野生動物というものは休みの日などないのだし、おそらくは文明以前の人類にも休日などなかった。休日に関する歴史をまとめた書物などあるだろうか。あれば読みたい。恐らく文明化し制度化されてきたどこかで、皆が共通に休める日を制定しようとしたのだろう。キリスト教などは聖書に休日が決められているが、あれが始まりだろうか。

 休日について考え始めたもう一つの理由は、自己という概念について考えていたことによる。果たして自分であることを休める日などあるだろうか。たとえ仕事などが休みの日であっても、自分が自分であることを休むことはできない。自己は常に自己であり、それゆえに人間は様々な制約を受けねばならない。休みの日というのは、本当に休んでいるのだろうか。むしろ休みの日にこそ、自己は自己の本来性を回復し、自分らしく立ち働くのではないだろうか。休みの日にどう過ごすかにこそ、その人をその人たらしめる要素が多分に含まれる気がする。

 曹洞宗の開祖、道元は、座禅を組むことにより、自己がすなわち仏であるということを悟るとしたが、典座教訓や雲水たちの一挙手一投足に至っても、それすべて修行であると説いた。洗面も、食事も、掃除も、寝るさまでさえも、仏であるということを意識し、自らが仏であることにふさわしい人間であることを意識しろと教えた。修証一如という言葉はまさにその意味である。

 私たちは、常に自らがどのような人間であるかについて気にしているだろうか。気にすることは息苦しいものだろうか。私はやはり、自らの行いを俯瞰することは日常生活の中で必要であると思う。休みの日であっても、私が私であるということには変わりはないし、私が私であるということを忘れてはならないと思う。

 動物は、日々、生きるか死ぬかの極限の中に暮らしている。効果的な貯蓄の術をほとんど持たない彼らは、その日その日の食事がないだけでやがて死に至る。強者に食われても死に至る。病に犯されれば助かる見込みはない。何かしらの傷を負えばそこが化膿し壊死しやがて致命傷となる。彼等が生きることは、現代人類の想像を絶するほど困難だ。

 そんな状況の中で、生きるということ。日々その時その時が、末期の時かもしれないということ。この意識は、果たして人間には不要であるだろうか。人間は、休日だからと言って全く安全に、気を抜いて、自己が生命たることも忘れ、享楽にふけってよいものだろうか。私はいささか、現代人類には、特に日本のような高度に成熟した文明社会においては、生命に対する危機感が足りていないと思う。

 凶悪事件が起こる。つい先日も、某アニメ会社のビルが放火され、多くの人々が亡くなったらしい。それに際し、人々は何を思うだろうか。人間の生命に関して、一方では動物たちと変わらず、いつ生命が失われるともわからない状況がある。しかしその一方で、近いうちに失われるのは自らの生命ではないと考える人々が大多数であろう。そんなことでいいのだろうか。そんなことだから、人間の死について真剣に考えられずに、認識が歪み、暴力が生まれ、自らについて熟考することもできない人間が量産されている現状があるのではないだろうか。

 死について考えられないことは、生についても考えられないことである。目先の利益や享楽に囚われ、自己を失っている人間ばかりだ。精神が乏しい。精神が乏しいと心身も乏しくなる。心と体は、人間の全部ではない。古代の先人たちは、乱世を生き抜いた戦士たちは、人間を考え抜いた賢人たちは、皆、人間の精神の重要性を説いている。人間は心身のみにて生きるにあらず。心身神この三種の相互支持において生きる。精神は、宗教においては神への信仰である。人類がなぜ宗教を生み出したか、それは精神を必要としたからである。なぜ人間が精神を必要としたか、それは人類が文明化の中で、精神を失っていくと思われたからである。

 野生動物には、精神がある。人間よりはるかに強い、生への執着と志向性がある。しかしそれは逆説的に、死をいつでも受け入れる魂でもある。いつでも死ぬことができるということは、いつにおいても全力で生きられるということである。日本の武士道の神髄は、まさにこの点にあった。「武士道といふは、死ぬことと見つけたり。」宗教がなぜ、死にこだわるのか、それは生を豊かにしたいからである。生と死は同体の二側面である。生だけに固執し、死を全面的に拒むような人間は、結局生そのものを直視しないことになる。死は、生であり、生は、死である。我々はまず何よりそのことを思い出さなくてはならない。

 私が休日について思う点は、まさにこのことである。人間には休みが必要であるというのが、多くの人々の意見であるだろう。しかし実際に、人間は休めるだろうか。人間であることを休めるだろうか。労働環境などの話ではない。その問題はもっと別の重大事項である。私は労働については別に意見を持つ。だがここでは、もっと根源的な話をしたい。

 私は、私を表す何か分類を一つだけ用いるとすれば、学生でもなく、日本人でもなく、若者でもなく、人間でもなく、ただ、「生命」と称したい。私は根本的には、一つの生命である。やがて終わりゆく命である。それは百年後かもしれないし、今かもしれない。全てが未知に包まれた、明日なき生命である。生命には今しかない。今ここもとに生死を分かつ。それが生命の本質であると思う。「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは。」花を見よ。木々を見よ。鳥たちを見よ。虫たちを見よ。魚を見よ。獣を見よ。皆、その時を至極全うに生きている。彼らには現在しかない。過去も未来もすべて、この瞬間の現在へと収斂する。

 私という生命は、どこに生きているだろうか。休んでいたとしても、私は現在にしか生きることはできない。「今しかないだろ。全部やるにはさ」

 私は、生きたい。この瞬間を生きたい。時の流れは、人類の生み出した概念だ。しかし、変化というものは、留まる事を知らない。この流れの中を、生きたい。

 もはや休日というテーマとは全く関係のないものになってしまった。まあそれでいい。一貫性は論文を書く際には重要かもしれぬが、これは論文ではない。ただの思考の整理だ。否、整理でもない。ただ流れの痕跡を残すだけだ。意味はない。意味はないからこそ、そこに得も言われぬ良さがある。あってほしい。私はそう思う。

 最後にひとつ、述べておきたいことがある。それはセンシティブな内容なので、もしかすればこの部分は誰かに読まれれば大きな批判を浴びせられるかもしれない。でも、言いたいことがある。

 精神病という言葉がある。現代においても使われているのかどうか、私は医学について全く無知であるからわからない。ただ、「精神病」という言い方はやめたほうが良いと思う。あれは精神が病むのではないだろう。心理が病むのであろう。だから心理病といった方がいいのではないだろうか。フロイトの例の方法も精神分析と呼ばれているし、精神医療だとかまあ色々の言い方があるが、私はそれらの訳がどうも馴染まない。心理学は英語でサイコロジーであるが、精神分析サイコアナリシスという。これは同じ系統に属する語であるのに、なぜ心理、精神と別の訳語を当てているのだろうか。全く意味不明である。

 なぜこんなことを言うかというと、先述したとおり、心理と精神は別のものであると私は考えるからである。心理は基本的に言葉による。ゆえに言語を持つ人間にしか意識されないものである。しかし精神は、動物にもある。この違いだ。精神はどちらかと言えば、心理学的には無意識の底の底にある何かであるだろう。エネルギーを与える根源である。もしかすれば、このような考え方に基づいて「精神」分析と訳したのだろうか。だとすればまあ妥当性はある。

 精神は、病むものではない。病むのは心理である。現代人は精神と心理を混同している。自分が何を病んでいるのかわかっていない。精神という存在を捉えきれないために、病むとも言っていいだろう。生と死を包括する精神を軽視して、心理ばかりに目が行くために、病む。心と体は人間の全部ではない。精神という力の源泉に支えられて我々は生きている。そのことを忘れてはならないだろう。