Shibaのブログ

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「琵琶行」と沈黙、「バーント・ノートン」と静止

以下は、大学二年の時に受けた、中国文学の授業の試験に対して、私が書いた回答である。

 

題:「琵琶行」と沈黙、「バーント・ノートン」と静止

 

 「琵琶行」は、白居易が左遷された先の江州で、ある女性の奏でる琵琶に感動し、その女性の身の上に自らを重ねて詠じた歌であるが、その音楽的描写の一部には深い思想的示唆が含まれているだろう。簡潔に述べると彼は音楽における刹那の「沈黙」に妙趣を感じることがあると詠んだ。この哲学的ともいえる感覚は、時代と場所を隔てた十九世紀の英国の詩人T・Sエリオットの詩「バーント・ノートン」にも似たものを見ることができるだろう。

 「琵琶行」では、女性の琵琶の音色が驟雨、囁き、真珠が玉盤に落ちる音、花々の中の鶯声、または泉水の激流など多彩に例えられる。そしてある時それは凍った泉のように停止する。「氷泉冷澁絃凝絶 凝絶不通聲暫歇 別有幽愁暗恨生 此時無聲勝有聲」の部分である。音楽が止まったその瞬間に秘められていた深情が溢れ出し、こんな時には音の無い沈黙のほうが、音が有るよりも果てしない詩情を秘めているということだろう。

 音楽は一般的に、その音によって表現を行うものであるとされるが、白居易はそれだけでなく、その音の間に響く静寂、あるいは音の余韻が飽和していく時間の帰結である沈黙にこそ、音楽の妙趣は存在するということに気づいていた。これは音楽の芸術性を特殊な観点から見ることに気付いているという点で、彼の詩人としての感性の才気を感ぜずにはいられない。

 一方で、エリオットの「バーント・ノートン」という詩の中にも、同じように沈黙の含む意味を思想的に表した部分がある。「言葉は話された後で沈黙に到達する 形と型によってのみ 言葉も音楽もその静止に到達できる 中国の壺がまだその静止の中で 永遠に動くように。」この詩が真に意味するところは難解である。ただ、本来は動的であるはずの言葉や音楽が静止に達することができ、その静止の中では永遠に動き続けるという二重の意味での矛盾は、つまりある一点での静止・沈黙の中に運動・発声を超えた意味が存在しうるということではないだろうか。そしてその意味とは永遠なる運動、つまりは単なる一時的な動作を超えた悠久なる価値が生まれるということではないだろうか。

 以上のように両者ともに沈黙・静止に詩情を見出すという点で類似していると思われるが、白居易のほうが音楽を具体的に例え、それをある特別な場面においての気づきとして感情的に述べているのに対し、エリオットは具体性を排し、抽象的・思想的に音楽を捉えて論述しているだろう。いずれにせよ、洋の東西でこのようにある意味で類似していると思われる観点が存在するのは興味深いことである。

 

参考文献

・岡村繁『白氏文集二下』(明治書院 二〇〇七年)p.p.840-850.

西脇順三郎・上田保訳『エリオット詩集』(新潮社 一九六八年)p.p.211-240.