Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

現代の諸創作物と人間的意識について(1)【日日所感No.1】

        「現代の諸創作物と人間的意識について(1)」

 

 『太陽のない街』における工夫、細切れの章立てや視覚的イメージの積極的導入はブレヒトの演劇やシュルレアリスム芸術に影響されたもので、また読者のプロレタリアに向けて、疲労して帰ってきた後でも楽に読めるようにとの配慮だったが、現代の大衆向け諸芸術(小説・ドラマ・映画・アニメ)などはまさにそのような考えに基づいて、大体が読者に対する配慮に満ちている。これはある意味では芸術のブルジョワ性の克服と言えるかもしれないが、同時に近代芸術(特に文学)が持っていた「他者と出会う場」としての力を失いつつあるようにも思える。

 読者を考慮するばかりの創作は、近代芸術というより前近代的戯作に近しい。それらは大衆によってただ消費される商品に過ぎない。近代に確立された文学とは、消費されるものではない。芸術は商品ではない。『太陽のない街』の当時はテレビなどなかったが、ヴァルター・ベンヤミンによればそのような芸術、当時であればその代表は映画だったが、それは「注意散逸」な受容者に向けた芸術であり、集中や没入を要しない、気の散った状態でも楽しめる作品であるという指摘があった。さて、時は移って現代ではテレビ、そしてインターネットの世界的普及により、その現象はさらに加速拡大し、ドラマは60分、アニメは30分、ネット動画は10分、などとより短く、簡単に、気楽に受容できる創作物があふれ、大衆はそれらの虜になっている。

 その現象は、大量複製時代の宿命的産物であるのかもしれない。しかしながら、それは人間の心理に、精神に、どのような影響を及ぼしているだろうか。昨今の「ライトノベル」ブームや漫画・アニメの人気、またSNS動画共有サイトにおける創作物の爆発的増加・共有は、我々の芸術的指向性が、「手軽さ」「速さ」に傾き、高度情報化社会に後押しされる形で、生み出されては瞬間的に消費されていく「情報」とまで創作・芸術が成り下がった証ではないだろうか。私は先ほどあえて「本来の」文学のあり方について論じた。括弧でくくったのはそれが私にとってのという意味であり絶対的な核心であるとはないという配慮であるが、その文学の「本来的な」姿というものが、急速に変化しつつ、あるいは消えつつあるように思う。とにかく、私たちは「わかりやすい」ものを好み、「煩雑さ」を嫌い、「集中」して文学と向き合う体験というものを失いつつあるような感じを持つ。

 文学とは、「他者」と出会い、その差異と向き合い、異化する私の現実と言語とを感得し、そして自分とは何かについて考えていくものだと私は考える。そこには必然的に、「他者への扉」を開く自発性が求められてくる。文学とは、没入し、集中して向き合うものであり、片手間に行えるものではない。ゆえに文学とは、「面倒くさい」ものなのである。しかし、この面倒くささを乗り越えてこそ、自らの存在を揺るがすような「知」との出会いが待つ。「知」は震動である。自らの地平を揺るがす「地震」である。私たちは自らを覆されるような恐怖を味わい、それに怯えつつ感動し、その体験を経て新たな自己を認識する。その意味で真の文学体験とは、恐怖体験に近しい。

 しかしながら、前述したように、現代の大衆諸芸術の多くは、恐怖を避ける。これはホラー作品が少ないという意味ではなく、思考を排除する傾向があるということである。考えなくとも受容し、手軽な「快」をもたらす作品を好み、作り手も大衆の需要にこたえ、簡単に消費できる作品ばかりが大量に生まれ、まさしくアニメーションのキャラクターに象徴されるような、「違いがわからない」「同じような顔」を持つ作品ばかりが世に出回っている。このような事態は、大衆の精神の貧弱化を招くだけでなく、民衆の思考停止と批判能力の深刻な欠如をもたらしているだろう。手ごろな快楽を追い求め、金でそれを買い、消費し、気持ちよくなったら捨てる。まさにSNSで回ってきた画像を見て、細切れになった漫画や文章を見て、「萌え」「尊い」などの紋切り型の定型文で評し、次の瞬間には別の創作を見て、以前見た作品のことなど忘れてしまう。あるいはSNSで活動する多くの大衆作者自身もまた、己が何を書いたか、何を作ったかなどしばらくすれば忘れてしまうかもしれない。もしそうならば、その程度の作品しか書いていないし、所詮単純なアイデアのみの深みのない作品を作っているということである。文学は、芸術は、そんなに簡単に作れるものではない。

 私はここで、文学や芸術、あるいは諸文化に序列を付けたいわけではない。そうではなくて、現代の大衆文化の持つ特性について考察することを試みただけである。そしてまたその裏側にあってそれを支えている現代特有の「意識」についても考えたいところである。そうでなければ以上の論はただの不満不平に留まるからである。しかし、あまりに長くなるといけないので、さらに踏み込んだ考察は次回に行うこととする。

 

(2)へ続く

 

2020.4.3 Shiba