Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

現代の諸創作物と人間的意識について(2)【日日所感No.2】

 

 前回は、現代の創作物がより細切れになっていることを指摘し、ベンヤミンが指摘した百年近く前の状況より、さらに加速した思考停止型の芸術受容が行われているのではないかと述べた。今回は、そのような状況において、私たち受容者の思考感覚はどのようになっているかを考えたい。

 近代は個人主義の時代と言えるかもしれないが、私たち現代日本人の多くは、自ら積極的に個人である意識を持つというよりも、どこか受動的に個人であるように思える。これを「消極的な個人」と呼ぶこととしよう。それは「積極的な個人」と対極にある。「積極的な個人」が自らの意思により自立した人間であるとすれば、その一方、「消極的な個人」とは、旧来の共同体を失って分断された個人であると私は考えている。私たちが遠い過去に有していた家族や血縁・地縁的共同体の強固な結びつきは、もはやほとんど滅びたといってもいいだろう。私たちの多くは、親戚にどのような人がいるのか、もはや冠婚葬祭の時くらいしか知りえない。都会で一人暮らしをしている場合、その近隣の人間とどれくらい会話を交わすだろうか。私たちの多くは、もはや自分の隣人がどのような人間かさえも知りえなくなっているのではないか。分断され、不安なまま世界に投げ出された「個人」とならざるを得なくなっているのではないか。

 多くの人々が、寂しく生きている。しかし、現代の我々には、自らをその寂しさから救い得る諸サービスがある、それは、インターネットである。共同体を失ったすべての人が新たに共同体を発見・創造するツールがインターネット、延いてはSNSである。私たちは、「手軽に」寂しさを紛らわすツールを欲しがっていて、ITサービスはまさにその時代的な需要に応えたのだ。SNS上では本当にくだらない内容が飛び交う。ある種これは旧時代の共同体内でも行われていたコミュニケーションの「交話的機能」(ここでは内容のない会話、会話自体を目的とする会話機能のことを指す。たとえば、しばしば家族や親しい関係同士で「寒いね」「そうだね」というような、それ自体として情報の伝達を志向するというより、言葉を交わすこと自体を求める行為をするが、それである)の代替となった最たる例といえるだろう。

 SNSはくだらない会話をするところであり、学術や政治的な議論をする場所としては向いていないだろう。なぜなら、基本的にSNSには文字制限があるからである。それは十数字から百数十字であり、多いものでもせいぜい数百字であろう。このような細切れになった言葉では、深遠なる思想を表現したり、複雑な社会問題について論じたりすることは不可能である。連投機能などもあるが、結果としてそれは長い議論の一部だけが切り取られてしまうリスクをはらみ、また表現の全体的な相互伝達を阻害する要因でもある。

 分断された個人がたどり着く場所としてのインターネット・SNSもまた、言語が細切れに分断された場所であるのは皮肉なことである。SNSは思考しない。考えないことによる癒しを我々は享受する。我々は難しいことなど全くお話ししたくない。我々はひたすらに、自分の日常を生活し、顔も見えない相手と、脆弱な精神の傷跡を互いに癒し合うだけである。我々は我々の近くには、心地よいものしかいらないのである。細切れになった個人は、細切れになった心を、細切れになった言葉で表現することしかできない。

 すべてが細切れになっている社会。そして個人も芸術も分断され、消費されてゆく社会。売れるか売れないかしか価値基準がない社会。文学作品が他者と出会わなくなる社会。そのような社会に我々は生きている。分断を乗り越えて、我々を揺るがす「文学」と「知」は嫌厭される社会に我々は生きている。私はそのように思うのだ。

 そして我々は、我々自身の精神が全く脆弱になり、批判的視点を持たず、我々の社会が、そして我々自身が、どのように動いているのか本当の意味では知りえなくなっているだろう。目の前の小さな箱に映し出される全く穏やかな世界、タネのわかった手品、どのようにも我々を脅かさないストーリーに見とれ、そのはるか彼方の現実において進行している、どのような悪意にも気づくことはない。我々はぬるま湯につかった赤子のようだ。春の日の井戸の中に住む蛙のようだ。我々の住む社会が、国家が、世界が、何に染められているのか。何が背後で動きつつあるのか、我々自身の思考が何に影響され、支配されているのか。それさえも自覚することはない。我々はただ、快楽を享受するだけの愚者である。

 選挙の極端に低い投票率やデモ等に対する白眼視、主張する人間への軽蔑心と嘲笑、歴史修正主義、特定の国に対しての無批判な態度、あるいは特定の存在や集団への根拠のない敵意、それらは総じて、我々が他者との付き合い方を忘れ、幻想的な偏見に支配されている状況を示すだろう。我々は真の意味での文学と知を取り戻さねばならない。我々は反省せねばならない。そして、我々は模索せねばならない。他者とは誰か、どのような存在か、そして我々は他者とどのように出会い、付き合ってゆくべきか。(完)

 

 

(この文章は、2019年5月27日に書いたものを推敲したものです。)

 

 

2020.4.4. Shiba