Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

「失敗」ということについて【日日所感No.9】

 以下は、某文芸雑誌の懸賞に応募するために書いたものですが、結局応募できなかったので、ここに載せて供養したいと思います。

 

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 さて、私は今から失敗について書きたい。失敗とは、どのように捉えられているだろうか。よく言われる「失敗は成功の母」であるという言葉は、真理のように見えるが、それは一見失敗を重視しているように見えて、成功の土台としてしか失敗を見ていないのではないかと思う。要するに一つの合理性に裏打ちされた思考なのだ。人間は失敗を受けて徐々に自らを改良していく、していけるはずだ。という進歩主義的な観念がそこにはある。しかし、私は、そうは思わない。

 失敗は、それ自体として失敗だ。何を言っているのだと思われるかもしれないが、失敗とは失敗なのだ。何かの基礎としてあるものでもないし、何かの目的のために行われるものでもないし、より善い段階への通過点でもない。私は失敗そのものを復権したい。私は、例えば失敗は人間を成長させるから大事だ、というような話をしているのではない。そうではなくて、失敗は、そのものとして愛すべきものだ。私は失敗を愛している。

 人間は失敗を恐れることはよく指摘されているだろう。私自身、ほとんど最近まで、失敗とは恐怖の対象であった。失敗は、怖い。失敗すると叱られたりするし自分の評判は落ちるし面目は失われるし、なにより自分自身の自尊心が甚だしく傷つく。だから人間は、何か失敗をした場合、次こそは絶対に成功させると考える。ゆえに失敗は繰り返さないことが望まれる。これは確かに合理的な考え方である。そして現代人はおおよそ以上のように考えるのが普通である。

 しかしながら、そうではない考え方もあるだろう。合理性はある程度の普遍性を持つかもしれないが、それは一つの考え方であり、真理ではない。私はここに、失敗の別の捉え方を示そうと思う。

 私は、自らに関わる全ての行為が、修行であると思っている。朝起きる。ゴミ出しをする。顔を洗う。食事を作る。食べる。排泄をする。歩く。電車に乗る。本を読む。授業を受ける。話す。聞く。買い物をする。掃除をする。洗濯をする。私の日常の全てが私を形作る。私とは、私の日常の細事にこそ最もよく現れている。最も無意識的に行っていることの中にこそ、その人の独自性は現れると私は思う。

 このような考え方は、公的世界での仕事を重視し、私的世界の生活を軽視する近代性とは相容れないだろう。近代は合理性の時代である。合理性とは、分別の思想だ。あれは重要である、これは重要ではないと分別をつける。そして重要なものは丁寧に、重要でないものは簡単に済ます。そうやって全てを効率化していく。一般的には、先述したように、社会生活の中での責務を全うすることが重要であると捉えられる。公事が私事に先んずる。だが私は、そのような公私の差別のあり方を疑問視する。人間が生きる上で重要なのはむしろ、私事に属することではないだろうか。もちろん文明社会なので、社会的義務は大事である。しかし、人間を生命として捉えるならば、生きる上で重要なのは、何より食べる、寝るなどのことであるだろう。生活を軽視することは、生命を軽視することに繋がると思われる。人間にとって、自らの生命を自ら営むこと以上に重要なことなどあるだろうか。

 話を戻そう。修行とは、何か。修行とは、自己を極めることである。自己を極めるとは何か。自己が自己であることを証し続けることである。自己を証するとはなにか。一つ一つの場にて、自己を真剣に生き抜くことである。

 日常の小さなことも気をつけたい。姿勢はどうかとか、何を食べたかとか、感謝の気持ちを忘れていないかとか、そういった些細な事こそ、人生で最も大事なことであると思うからだ。日常些細な行為は小事である。しかし、その小事を軽んじるものは、きっと大事を見失う。小事こそ大事である。私はそう信じている。修行とは、小事にこだわることである。これは決して、大事を軽んじ、重箱の隅を楊枝で洗うような事をしろというのではない。大事は、常に抱える。私にとって大事とは何か。それは、死である。常住死を離さない。私は死とともにありたい。大事な生死の問題を常に抱えるから、それは常に意識されているのである。ただ、それにばかり囚われ、己の日常がおろそかになってはいけない。大事を抱えつつも、些細な事への心配りを忘れない。それが、修行である。

 修行はゆえに、成功がない。常に行い続けることだからである。達成がない。着地点がない。修行には、あるとすれば失敗しかない。例えば仏道の修行に励む僧たちを考えてみてほしい。彼らは、籠山行や回峰行など一連の厳しい修行は持つが、それを仮に終えたとしても、彼らの修行は終わらない。彼らは生き続ける限り、仏道に励み続ける。到達点はないのである。終わらない試みなのである。私もまた、そのような意識を持って日々を生きようとしている。人生も、終わるまでは終わらない。ゆえに生きるとは、ある一個の人間によって紡がれる、行為の連続体なのである。

 成功も、達成も、終わりさえないなど、現代人が行いたく思うだろうか。多くの現代人の言をここで代弁しよう。「そんなことして何の意味があるの?」「幸せになれるの?」「楽しいの?」私は断固としてこたえたい。修行とは、そんな程度の問題に片づけられるものではないのだと。人間の生きる道は、そんなに単純明快なものではないのだと。

 修行とは、自己が自己であることの証明である。そんなことをせずとも、自らは自らであるだろうと、確固として主体であるだろうと、近代的人間は考える。私はそうではない。自己は自己としてあらねば自己ではない。我を失うことがあってはならない。常に自らの行いについて批判的に観察できねばならない。それが修行である。自己が自己であること。それは、自己が常に「あるべくある」ということだ。これは難しいことだ。私たちは外部の様々な何かに囚われて、自己を見失う。現代に顕著なもので言うならば、多くの人々は、携帯端末や諸メディアに囚われ、自らを進んで失っている。はっきり言ってしまおう。多くの人々が、自分を忘れようとするのはなぜか。それは、自分が、怖いからだ。

 自分を直視することは、時に厳しいものだ。常に正しく生きることができる人間はまずいない。自分を直視し続けることは、自らの過ちを常に受け入れ続けることだ。ここにおいて、「失敗」というテーマへと回帰する。正しさを損なったとき、それをしっかりと自分で受け入れ、自分を批判し、正しさを求めることは、心理的に負担なものである。だからといって、私はそれをやらないわけにはいかない。なぜなら私は、生きることとは、修行であると考えるからだ。修行には失敗しかない。その失敗と常に向き合い続ける事、それが修行であると言っても良いだろう。

 ゆえに失敗は、それ自体として意味を持つものである。成功の土台ではない。失敗は、修行=人生の核をなす。人生とは、穴の開いた甕に水を入れ続ける試みに似ている。誰もが、幾度となく転落する岩を運び上げるシーシュポスなのである。人生とは、永遠に終わらない不条理の循環である。ただ、一見無意味に見えるその繰り返しの中にこそ、人生の深みは現れる。人生は修行である。修行とは、失敗の連鎖である。失敗の連鎖とは、真剣な試みの連鎖である。真剣な試みとは、一つ一つの場において、生死をかけた戦いに挑むことである。失敗こそが、人生である。そして失敗に向き合うことこそ、ありのままの自己と向き合うことである。

 私は失敗をよくする。特に学業に対して、私は失敗をいくつも繰り返した。授業をもっと真剣に聴いておけばよかった。レポートの体裁をもっと丁寧に点検しておけばよかった。あの本をもっと早くに読んでおけばよかった。などと後悔することの連続である。当然、失敗すれば結果は悪くなる。ただ、結果などは付属的なものであるから、私はそこまで気にしていない。勝敗が重要なのではない。一つ一つの勝負に臨む心持と、いざ勝負になった場合の心身の統一が重要である。失敗は失敗として深く反省する。しかし、そこに留まってもいられない。私は何度失敗しても、それを引き受け、また歩み始めなければならない。

 失敗は成功に繋がらなくてよい。なぜなら生きるということにおいては、成功ということの方が例外だからである。成功を目指すことは、時に自己を見失うことになりかねない。生きることは、幾度とない失敗と、敗北と、苦渋だけを抱え込んだ道である。それでよい。それで、いいのだ。深く悔む必要はない。失敗は当然だからだ。排除する必要もない。ただ、軽視することはいけない。些細な過ちも、重大なものとして扱う。これは矛盾するように聞こえるかもしれないが、その矛盾性を乗り越えてこそ、新しい視界は開けると私は思う。

 私は失敗を愛している。失敗こそが、私の人生に彩をくれる。日々を真剣に生きる喜びを与えてくれる。一生懸命に生きても、報われないのが当然である。それでいい。それこそが私の人生の豊かさだ。終わりがない事。始まりもない事。到達しないこと。成功しないこと。一切が無と化すような消失点への旅路を私は歩んでいるのであり、エンディングロールが永遠に流れないドラマの中を、私は生きているのである。

 

 

 

※以上の文章は、大凡2019年の夏ごろに書かれたものを、2020年1月ごろに推敲したものである。現在の私の考えとは異なる部分もあるので注意されたし。

 

 

 

 

2020.5.14.Shiba