Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

歴史は運動であり、固定化されたパターンではない。――宇佐美圭司『廃墟巡礼』(平凡社新書):書評【日日書感No.4】

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 西欧近代がアジア諸国を飲み込み、グローバルなシステムの中に組み込んだ後、つまり、アジアが近代化という波にのまれた後、著者はその「大洪水のあと」のアジア・アフリカへと旅に出た。そして彼の旅とは、「つるつる」の表面ではない、その奥底に潜む「ざらざら」へと想像力を向ける旅であった。その旅記を基に本書は「描かれて」いる。

 近代の思想を受けた各国は、廃墟を「文化遺産」として保護するようになった。しかしそれは、廃墟というものが持つ生命性を失わせる結果になった。著者は自ら画家であるという経験から、それは西欧近代の「風景」の見方に由来すると述べる。「イタリア・ルネサンスが遠近法の発明によって、移ろう「時間」を消し去り、「空間」を凍結した」と彼は言う。西欧近代は遠近法を通して風景を見る。文化を見る。都市を見る。ゆえに近代はまさに「空間を凍結」する思考を持つ。近代絵画は空間を「風景」として切り取って描く。その時、世界が本来持っていた時間性は失われ、一つの均質的な空間だけが固着する。

 しかし、そうではない認識のあり方もあると著者は言う。それは、自然が持つ「運動の相」を捉える視線である。「作られたものが文化遺産となり、年月を経て、崩壊していくとき、制作時に選択からもれた可能性が作品の中から姿を現すのだ。作品は自ら、完成という仮の殻を打ち破って新しい生成をなしとげるだろう。」と彼は言う。異教徒の侵攻により打ち砕かれたアユタヤの仏像たちは、顔や腕を失ったことにより、かえってその「祈り」自体が前面化し、信仰の純粋な強さを感じさせた。土で作られたイランの廃村は、人間の営みの跡が浸食により徐々に削り取られることで、土壁がまた「土」へと戻る生滅の相を顕現した。それは東洋的な輪廻思想と結びつき、絶え間なく変化する「運動の相」を捉え、「時間」そのものが創作した芸術品のように見えると彼は述べる。

 西欧近代の静的な「空間」モデルとは異なったあり方、例えばそれは東洋のもつ動的な「時間」モデルともいえるような文化のあり方である。彼は、廃墟がそれを教えてくれるという。一つの理想形に固定するのではなく、作品の背後にあるあらゆる可能性へと想像を走らせるということ。「つるつる」ではなく、その奥の「ざらざら」を見通すこと。時の流れによる変化がもたらす豊かさを感知するとき、「廃墟」は、ただの欠落や崩壊ではなく、新たな生命の萌芽を感じさせるものとなる。それはまるで、蕾の静寂を打ち破り花が開くように。花が枯れ種を落とすことで、新たな生命が始まりゆくように。

 筆者が旅先の風景を描写することも、一つの固定ではある。しかし目の前で移ろいゆく風景は、決して止まる事を知らない。ゆえに彼の風景描写は、固定と変化のせめぎ合いの様相を示すようだ。「風が発生する気配がした。かすかな音をたてて空気に砂が舞い、その砂の舞いが空気の密度を微妙に変える。眼に見えない衣のように風が砂丘を覆い、砂丘の曲線をわずかずつ移動させ続けている。傾いた陽の光が稜線を際立たせ、影が砂丘の形を飲み込む。」

 現代はグローバリズムによって、ニューヨークでも東京でもロンドンでも上海でも、同じような摩天楼が立ち並ぶようになった。機能という思想のもとに均質化し固定化される我々の生活の中で、一見静的に見える景色の中にも、わずかな「流体の相」を見出すことが、人間の未来の可能性を考えることに繋がっていく。それは既にある人類の歴史というものが含み持つ、多様な可能性への想像でもあるだろう。

 

 

 

文献:宇佐美圭司『廃墟巡礼 人間と芸術の未来を問う旅』(平凡社新書37 平凡社 2000年)

 

 

 

 

2020.5.17.Shiba