Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

「恐らく、自分も何かしてみたいからでしょうね、幸福というもののために」――アルベール・カミュ「ペスト」を読む(3)【日日所感No.7】

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どうでもいい話であるが、サルトルカミュが決別した話は有名である。カミュはその後ノーベル文学賞を受賞したが、サルトルは賞に選出されたにもかかわらずこれを拒否した。

 


 第一回、第二回と、カミュの「ペスト」を読解するという建前で、色々と語ってきたが、読者諸君には大変喜ばしいことに、今回の第三回で「ペスト」については一区切りとしたい。

 私は日頃、ほとんど日本文学しか読まないので、海外文学を読んだのは久しぶりであり、新鮮な気分だった。そして改めて、海外文学の構成力の巧みさに嘆息したのである。カミュという作家は物語としての構成力に加え、思想的深みを持った箴言のような言葉の節々、個々ではなく集団の人間への心理分析、対話・独白・日記等の多様な形式を織り交ぜた語りなどを用い、本当に一流の文学者であることを実感させられた。日本文学にはあまりない器の大きさを感じさせられる。しかし、日本文学との対比で言うならば、「ペスト」は読者に想像の余地を持たせるような空白や、個々人の心理を突き抜けていくような内向性の面はほとんど見られない作品であったと思う。あくまで社会性の中で人間を捉えていくという方法は、海外文学の方に多く見られるのだろうか。残念ながら私は比較文学の知見は持ち合わせていないので、これは完全に素人の考えなのだが。

 とにかく、「ペスト」が名作であることは間違いなく、私は少しでもそれを伝えられればという希望のもと、いくつか文章を引用して示すという手法で本作を紹介してきた。だが、一連の流れとなっている文学テクストを、細切れにして示したところで、何も伝わらないことは百も承知なのである。文章というものは、前後の文脈によって決定される。だから名言なんてもののように、その一部だけ切り取って示したところで、その文学作品についての何もわかるものではない。現に私のブログの読者諸君は、恐らく引用部を見たところでなんのことかさっぱりわからないというものが多かっただろう。だから引用して示すのは、ただ私の自己満足でしかないのであり、それを何のためにやるかと言えば、私が出会った言葉たちをこうして並べてみたいからである。特に意味のない行為なのである。

 さて、最後の第三回は、「ペスト」の主題であるともいえる、抑圧への反抗についてである。物語の前半でペストに敗北し続けた人間たちが、後半部ではそれぞれ自分の責務を自覚して、苦しむ人々のために働こうとする。多くの読者はそこに、カミュが掲げるヒューマニティの一縷の光明を見るのである。特にタルーという人物に注目したい。彼はカミュ自身の精神を最もよく体現している存在だとみられる。不当な事物に対する徹底的な反抗の姿勢と、どこまでも弱者に寄り添おうという気概、そして人間の可能性を信じ続ける強い精神は、まさにカミュ自身の人生を表しているように見えるのである。以下、引用していきたい。

 

 

 

「恐らく、自分も何かしてみたいからでしょうね、幸福というもののために」

 

 

 

「しかし、自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかも知れないんです」

 

 

 

「子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死ぬまで肯んじません」

 

 

 

しかし、これを読んだ時、パヌルー神父のすべての思いは、唯一人踏みとどまった修道士――七十七個の死体を見ているにもかかわらず、また特に三人の同僚の手本があるにもかかわらず、唯一人踏みとどまったその修道士――の上に注がれたのであった。そして神父は説教壇の縁を拳でたたきながら、こう叫んだ――「皆さん、私どもは踏みとどまる者とならねばなりません」

 

 

 

「その結果、僕は世間でよくいう政治運動をやるようになった。ペスト患者になりたくなかった――それだけのことなんだ。僕は、自分の生きている社会は死刑宣告という基礎の上に成り立っていると信じ、これを戦うことによって殺人と闘うことができると信じていた」

 

 

 

「僕は、自分が何千という人間の死に間接に同意していたということ、不可抗的にそういう死をもたらすところの行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもしていたということを知った。ほかの連中は、そんなことに煩わされていない様子だったし、そうでないまでも、とにかく自分の方からは決してそんなことを話し出そうとしなかった。僕の方は、のどがつかえているような気持だった。彼等と一緒にいながら、しかも一人ぽっちだった」

 

 

 

「僕は、直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心したのだ」

 

 

 

「僕は、災害を限定するように、あらゆる場合に犠牲者の側に立つことにきめたのだ」

 

 

 

 語り終わると、タルーは片足をぶらぶらさせながら、足先でテラスの床を静かにたたいていた。ちょっと沈黙があった後、リウーは少し身を起こし、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーには何かはっきりした考えがあるか、と尋ねた。

「あるね。共感ということだ」

 

 

 

「しかし、とにかくね、僕は自分で敗北者の方にずっと連帯感を感じるんだ、聖者なんていうものよりも。僕は恐らくヒロイズムや聖者の徳などというものを好きになる気持ちはないと思う。僕が心をひかれるのは、人間であるということだ」

 

 

 

 ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたところのものは、それは知識と記憶であった。

 

 

 

 彼は幻影のない生活というものがどんなに不毛なものであり得るかということを、はっきり意識していたのだ。希望なくして心の平和はない。

 

 

 

 すべて、死んだ者も罪ある者も、忘れられていた。爺さんのいった通りである――人々は相変わらず同じようだった。しかし、それが彼等の強み、彼等の罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を越えて、リウーは自分が彼等と一つになることを感じるのであった。

 

 

 

 その時医師リウーは、ここで終わりを告げるこの物語を書きつづろうと決心したのであった。――黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼等に対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賞賛すべきものの方が多くあるということを、ただそうであるとだけいうために。

 

 

 

 カミュの示したところの「ペスト」とは、結局はただの感染症ではない。感染症に仮託させられた、全体主義的な悪である。愛していた者達をそれに奪われ、友人であったはずの者達もそれに屈していく中で、それでもなお、人間の幸福のために何ができるのか、それを考えるということだ。さもなければ、私たちは容易に「ペスト」に滅ぼされてしまう。

 ペストとの戦いに勝利したとしても、その後には虚しさが残る。勝利の歓喜はないのである。ただ静かに、人々は元の生活へと戻っていく。しかし、それは厳密な意味で以前の生活と同じではない。人々はあまりに多くを失ったのである。だから語り手は、決意するのである。「ペスト」を記録することで、極限状態においても人間は希望を失わずに生きることができるということを。私はやはり、この「ペスト」という作品は『夜と霧』などのジェノサイド文学に通ずるところがあるように思う。ただし、本作はあくまでヒューマニティに基づいているのであって、作品の全体を通して、現実的でありながら肉体の感覚が弱いようで、その代り抽象の度合いが強いようにも思うのだ。本当の災厄に立ち会ったとき、私たちは果たしてどのようになるのか。このように前向きに戦いうるのだろうか。

 そういう意味で言えば、本作の特徴的な人物は、最後に射殺されるコタールであるともいえる。私たちに近いのは、ややもすれば彼なのかもしれない。ただ、彼も孤独の中に生き、彼なりの自由を追い求めていたことには違いない。しかし、彼はまた別の意味で、人間的過ぎた。だが私たちもいざそのような事態になれば、泣き喚きながら自ら死の中へ飛び込んでいくのかもしれない。死にたくないと叫びながら。

 長々と書いてきたが、これでひとまず「ペスト」については終わりとさせていただく。もし全て読んでくれた人がいれば、本当に感謝申し上げたい。こんな自己満足の文章を良くここまで読んでくださった。あなたはきっと、どんな駄文でも読み遂げられる読書のスペシャリストであろう。どうか、今後も読んでほしい。それではまた。

 

 

 

参考文献:アルベール・カミュ『世界文学全集39 異邦人・ペスト・転落・誤解』佐藤朔・宮崎嶺雄・窪田啓作・加藤道夫 訳(新潮社 1960年)

 

 

 

2020.4.28.Shiba