Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

「不幸の時期にこそ、人々は真実に、すなわち沈黙に慣れるのだ」――アルベール・カミュ「ペスト」を読む(2)【日日所感No.6】

 一体この恐怖と不安の収束は、いつになるんだろうか。そんな思いを、今世界の多くの人々が抱えているのではないか。特に日本では、政府与党の対応が国民のためにやっているのか彼等自身のためにやっているのかわからないようなものなので、今後も長引きそうである。私たち自身も、つい一か月ほど前までは、こんな事態になるとは思ってはいなかったのではないか。人間は、どうしても目の前に降りかかる災害を信じることができない。皆、次のように思っていただろう。これは「ペスト」からの引用である。

 

 彼等はまさにはなはだ特殊な精神状態にあり、彼等を襲った驚くべき出来事を心の奥底ではまだ受け入れないでいながらも、何かが変わったということだけは明らかに感じていたのである。それでも多くの人々は、疫病がやがて収束し、自分たちは家族もろとも助かるであろうと、相変わらず望みをかけていた。

 

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ちなみに「ペスト」の長さは、大体「異邦人」の三倍程度である。

 

 しかし「ペスト」では、私たちの現状とは違い、当初オランの自治体は楽観的だったものの、死者数が増えるとすぐに方針を変え、徹底的な都市の封鎖が行われるようになった。ただし、そこでは積極的な個人への経済支援などは行われていなかったようである。

 語り手の視点は、後半になるにつれ、専らペストに翻弄される個人を描くことに集中していく。主人公のリウーが医者であることにより、医療の周辺にいる極限状態におかれた人々(医療従事者・患者両方)が、いかなる精神を抱き、それが変化していくのかを捉えることに重きが置かれているような観がある。

 第一回では、ペストの流行の初期においての人々の心理を中心に読んだ。第二回では、ペストが完全に災厄として認識された後の、人々の精神状態について中心に読みたい。恐らく、それは今世界の多くの人々が味わっている感覚であると同時に、日本においては、今後私たちが陥る精神状態であるだろう。

 第二回以降は、第一回のようにこちらで問いを設けることはしない。読者諸君に、実際にテクストを読んで、各々で考えてほしいからだ。できる事なら、一家に一冊あると思われる「ペスト」を紐解いて、しっかり全て読み込んでほしいくらいである。日本の行政は(特に安倍晋三君、君のことだ)、ほとんど使わないような布マスク2枚を配るのではなく、全個人に「ペスト」を一冊配ってはどうだろうか? それこそ批判が殺到するだろうが。まあとにかく、「ペスト」を読めばわかるように、人間の心を蝕んでいくのは不安であることには間違いない。もしこの国を守りたければ、その不安を解消できるような政策が必要なのである。人間を救うのは、人間であるが、人間を殺すのもまた、人間である。それでは以下に引用を載せていく。

 

 

 

「まったくばかげていますよ、なにしろ。僕は報道記事を書くためにこの世の中へ生まれてきたんじゃありませんからね。そうじゃなく、恐らく、ある女と一緒に暮らすために生まれて来たのかも知れないんです」

 

 

 

 毎晩、人々の腕はリウーの腕にしがみついて、すべもない言葉、約束、涙があふれ落ち、毎晩、救急車のベルは、すべての悲嘆と同様にむなしい、感情の発作を激発させるのであった。

 

 

 

同情がむだである場合、人々は同情にも疲れてしまうのである。

 

 

 

 人々は最初外部から遮断されることを、彼らの習慣の幾つかをかき乱すにすぎない程度の、なんでもかまわない、とにかく一時的な不愉快事を受け入れるようなつもりで、受け入れたのであった。ところが、夏の燃え盛り始めた空におおわれた一種の監禁状態を突如意識して、彼等は漠然とこの蟄居が彼らの全生活を脅かしていることを感じ、そして、夜になると、涼気とともによみがえる精力が、時として彼らを絶望的な行為に走らせるのであった。

 

 

 

 ペストの日ざしは、あらゆる色彩を消し、あらゆる喜びを追い払ってしまったのである。

 

 

 

「災禍の初めとそれが終った時とには、人々は常に多少の修辞を行うものだ。第一の場合には、習慣がまだ失われていないのであり、第二の場合には、習慣が早くも回復されているのである。不幸の時期にこそ、人々は真実に、すなわち沈黙に慣れるのだ」

 

 

 

「彼らに欠けているのは、つまり想像力です。彼等は決して災害の大きさに尺度を合わせることができない。で、彼らの考える救済策といえば、やっと頭痛風邪に間に合うかどうかというようなものです。彼等に任せておいたら、みんなやられてしまいますよ、しかも彼等と一緒にわれわれまでも」

 

 

 

「しかし、そうなると僕は考えて見たくなるんですがね、このペストがあなたにとって果たしてどういうものになるか」

「ええ、そうです」と、リウーはいった。「際限なく続く敗北です」

 

 

 

 

 世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、もし明識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして実をいうと、そのことは問題ではない。しかし、彼等は多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、自ら全てを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳に他ならないのである。

 

 

 

 歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死を持って罰せられるという時が、必ず来るものである。

 

 

 

「人間は長い間苦しんでいることも、幸福でいることもできません。つまり、価値のあることなど、なんにもなしえないのです」

 

 

 

「僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心をひかれるのは、愛するがゆえに生き、かつ死ぬということです」

 

 

 

「これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかも知れませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

 

 

 

 天災ほど観物たりうるところの少ないものはなく、そしてそれが長く続くというそのことからして、大きな災禍は単調なものだからである。みずからその日々を生きた人々の思い出のなかでは、ペストのすさまじい日々は、はてしなく燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを圧しつぶして行く、はてしない足踏みのようなものとして描かれるのである。

 

 

 

 要するに、この時期においては、彼等には記憶はあったが、想像が不十分であったのである。ペストの第二段階においては、彼等は記憶も失ってしまった。その顔を忘れてしまったわけでなく、しかし結局同じことになるが、その顔が肉づけを失ってしまい、彼等はその顔を自分の内部に見出しえなくなってしまったのである。

 

 

 

 われわれの町では、もう誰一人、大げさな感情というものを感じなくなった。そのかわり、誰も彼もが、単調な感情を味わっていた。

 

 

 

 彼等はまだもちろん、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった。それに、たとえば医師リウーなどはそう考えていたのであるが、まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは絶望そのものよりさらに悪いのである。

 

 

 

 ペストはすべての者から、恋愛と、更に友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛は幾らかの未来を要求するものであり、しかもわれわれにとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである。

 

 

 

 しばしば、私たちが小説や劇で見るような、ドラマチックな人間的感動というものは、実は本当の災厄の下では、全く無いのだということを、「ペスト」は示している。「ペスト」はどこまでもリアルである。長く続く、そしてそれがいつまで続くのかわからないような抑圧に対して、人間は無気力になっていく。それは、例えば『夜と霧』などで見られるような、あの人間の感情が、つまり人間の最も人間的な部分が、徐々に脱色されていく過程に似ている。人間が非人間になっていく過程が、その心理の面から明かされている。ここに、実際に残虐な戦争を生き延びたカミュの経験が活きているだろう。私たちは死神に命を差し出す前に、自らの心を音もなく殺害するのである。そして極限状態の中で、人は愛も悲しみも喜びも怒りも失い、あらゆるものが無になっていく。

 私たちはどうだろうか。まだ、人間としての精神を保ち続けているだろうか? 親切には感謝を以て応え、不当にはしっかりと怒りを以て応えられているだろうか? 私たちは自らの最も大事なものを、自ら差し出すような真似をしていないだろうか? 今後私たちの住む社会の人々が、人間の感情を失ってしまったかのような行動を行わないだろうか?

 私たちは泥や藁でできた人形ではない。私たちは人間である。そのことを見失わないことが、災厄のなかでは重要であるだろう。つまりそれは、カミュの言うところの「誠実さ」なのではないだろうか。

 

 

 

参考文献:アルベール・カミュ『世界文学全集39 異邦人・ペスト・転落・誤解』佐藤朔・宮崎嶺雄・窪田啓作・加藤道夫 訳(新潮社 1960年)

 

 

 

2020.4.28.Shiba