Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

「わからない。全く奇妙だ。だが、そのうち済んじまうだろう」――アルベール・カミュ「ペスト」を読む(1)【日日所感No.5】

 新型コロナウイルスの世界的流行に伴って、パンデミック文学に注目が集まっていることは知っていたが、手元にそのような本はないし、わざわざ買ってまで読もうとは思わなかった。しかし、私のこの五畳半ほどの部屋の中にある500冊にも到達するであろう書籍類を整理するなかで、棚の奥から故郷・高崎の古本屋で買った本たちを見つけ、その一冊に、新潮社の『世界文学全集39 異邦人・ペスト・転落・誤解』があったのだ。1960年3月15日の初版で、今からちょうど60年前のものだった。本は読まないでも、積んでおくだけで良いことが有ると、つくづく実感したのである。

 

 

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新潮社世界文学全集39のカミュスペシャルセット。あまりに良い文章が多いため、付箋が50枚近くついている。

 

 

 カミュについての文学史的説明は、本やブログなどにいくらでも乗っているので、省きたい。実のところ、私もカミュについてはほぼ何も知らない。「異邦人」と「シーシュポスの神話」くらいしか読んだことがない。このうち後者は、大学時代前期における私の思想の核にかなり食い込んだものであるから、印象深く覚えている。無意味な人生に飽いている諸兄にはぜひ、「シーシュポスの神話」を薦めたい。

 カミュについては、必ずと言っていいほど、「不条理」という言葉が付いて回る。「不条理の思想」や「不条理の文学」といった具合に。でも、その「不条理のなんたら」という言い方が、私は好きではない。というのは、結局思想史・文学史的にそうなっているという言葉だけが先行し、では何が一体「不条理」であるのかという実証を、後世の読者が怠るようになっていると思うからだ。ゆえにカミュ文学読解の肝は、何が一体そんなに「不条理」であるのかを、自身で追体験することにあると私は思う。文学はあくまで言葉の連なりに過ぎず、それを語るのもまた言葉である。しかし、文学が指し示す方角や、文学が切り拓かんとする世界は、必ずしも言葉のみの世界ではないかもしれない。己に先んずるあらゆる言葉に囚われてはいけない。

 先ほど、カミュについての文学史的説明はしない。と言ったが、一つだけ注意しておきたいことがある。それは、カミュが青年時代をナチスファシズムへの反抗の中に生き、彼の作品の中には、正義と自由の追求と、人間を不当に抑圧する力への反抗があるということだ。本作「ペスト」も、ナチスの占領への反抗の文学として読まれてきた。「ペスト」が描かれたのは1945年であり、彼の戦争期の体験を土台にしているのは事実である。しかし、カミュの小説があまりに優れているために、本作は、あらゆる暴力や圧政に対しての人々の恐怖や反抗を示す物語として、世界的な普遍性を持つ。そしてまた、現在においてパンデミック文学として注目されるように、感染症のような問答無用で襲い来る強大な力に対しての、人間の恐怖と反抗を克明に描いた作品として読むことも、充分に可能な作品である。

 さて、私が「ペスト」を読んでみて、真っ先に抱いた感覚とは、カミュはこれほどまでに人間の心理を描くのに長けた作家だったのかという感嘆であった。ペストという死を招く病が突如として、そこに何の所以もなく人間に襲い掛かったとき、人々は何を思い、どう対処するのか。本作は為政者から貧者に至るまで、あらゆる人々の意図や理性や情熱が交錯し、一つの濃縮された群像劇の体を為している。そして誰もが死にかねない極限の状態において、人間は希望を持ちうるのか。その精神のあり方を問うている。本作の最後に、結局人々はペストを抑え込むことに成功する。しかし、多くの死した人々は、もはやそこにはいない。失った日々と時間は、もう戻っては来ない。それでも人々は、まるで以前と変わらぬように生活をし始める。人間はペストに勝利することができた。けれども、それは同時に敗北のようでもあったのだ。そこに人間という存在の強さと、悲しさと、罪があるように私は思った。特に目下に進行するパンデミックを考えれば、本作の示唆するものは大きいだろう。

 私が今回以降のブログでやることは、その「ペスト」を現在の状態(特に日本の状況)と照らし合わせて読む中で、私たちがパンデミック下で、あるいはパンデミックの後で生きていくということについて、考察するヒントを得ようという試みである。ブログを数回に分けて、それぞれ何かテーマを決めて、「ペスト」を読解したい。

 さて、第一回のテーマは、ペストという危機に遭遇した時、人間はそれを、簡単に受け入れ得るのかということについてである。結論から言ってしまえば、多くの人間は、日常が脅かされる事態を信じることはできない。たとえ目の前で多くの死者が出ているとしてもだ。ペストの前半部は、未曾有の災厄がオランという港町を襲い、徐々に崩壊していく平穏な生活の中で、なおも人々はペストの危険性を信じることができず、すぐにまた、元のように戻るだろうと楽観的な認識を行うことがよく描かれている。しかし、都市の門戸が封鎖され、日常が徐々に脱色されていくにつれ、人間の精神には重大な変化が起こり始める。それについては、第二回で書こうと思う。

 第一回のテーマについて、私が逐一解説してもよいのだが、既に紙幅を大いに割いてしまっているため、読者諸君もそろそろ退屈であるだろう。よって以下では、いくつかの引用を解説に変えさせていただきたい。というのも、優れた文学作品は、それ自体として人々に訴えかけ多くを考えさせることが可能だからだ。引用を読んで、読者諸君に各々考える契機を与えられたら僥倖である。

 ただ、考える要となる問いの部分だけ、僭越ながら私がいくつか提示しておきたい。まず、目下進行中である新型コロナウイルスパンデミックに対して、私たちは初めから大きな危機感を抱いていたか? あるいは、すぐになんとかなるのではないかと思っていなかったか? 政府や自治体の対応はどうだったか? 情報を隠蔽したり、歪めたりしなかっただろうか? 国民の生命と自由を共に守るために迅速に動いていただろうか? そして、情勢の変化に伴って、私たちはどのように、考えを変えてきているだろうか? 今後、さらにどのように変化することが見込まれるだろうか? 最後に、今後人々の心はどのように変わり、それがどのような事態をもたらし得るだろうか? あるいは、今後どのような危機が想定されるだろうか? 

 「ペスト」は、以上のような問いを考えさせる上質なテクストである。以下は作品からの引用を載せる。読者の多くは私と同じ本ではなく、新潮社の文庫版で読むであろうと思われるので、ページ数は省略した。是非、それぞれどのような場面なのか、前後の文脈はどうなっているのかを各自確認してほしい。

 

 

「いったいどういうんですの、今度の鼠さわぎは」

「わからない。全く奇妙だ。だが、そのうち済んじまうだろう」

(中略)

「何もかもよくなるよ。今度帰って来たら。お互いにまたもう一度やり直すさ」

 

 

 

「ただ、世間はそいつに病名をつける勇気がなかったのさ。即座にはね。世論というやつは、神聖なんだ。――冷静を失うな、何よりもまず、冷静を失うな、さ」

 

 

 

 天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。

 

 

 

 このビラから、当局が事態を正視しているという証拠を引き出すことは困難であった。処置は峻厳なものではなく、世論を不安にさせまいとする欲求のために多くのものを犠牲にしたらしかった。

 

 

 

 その日一日じゅう、リウーは、ペストのことを考えるたびに襲って来るちょっと頭のくらくらするような気持が、だんだんひどくなって来るのを感じた。とうとう、彼は自分が恐怖にとりつかれていることを認めた。彼は人のいっぱいはいっているカフェに二度もはいった。彼はコタールと同様に、人間的な温かさに触れたい欲求を感じていたのである。

 

 

 

 

 しかしながら、その晩も、公式の発表は相変わらず楽観的であった。翌日報知通信社は、県知事の措置は平静に迎えられ、早くも三十名ばかりの患者が申告された、と報じた。

 

 

 

  

「埋葬の方は警戒してあるのかな」

「してないんです。僕はリシャールさんに電話をかけたんですがね――徹底的な措置をとらなきゃ、なんのかんのいってるだけじゃだめだって。病疫に対してそれこそ完全な防砦を築くか、さもなきゃ全然なんにもしないのも同じだって、いったんです。」

「で、それで?」

「自分にはそうする権力がないっていう返事なんです。僕の意見では、こいつ、勢いを増してきますよ」

 

 

 

 

 この病疫の無遠慮な侵入は、その最初の効果として、この町の市民に、あたかも個人的感情などもたぬ者のようにふるまうことを余儀なくさせた、といっていい。

 

 

 

 事実上、われわれは二重の苦しみをしていた――まず第一にわれわれ自身の苦しみと、それから、息子、妻、恋人など、そこにいない者の身の上に想像される苦しみと。

 

 

 

 

 みずからの現在に焦燥し、過去に恨みをいだき、しかも未来を奪い去られた、そういうわれわれの姿は、人類の正義あるいは憎しみによって鉄格子のなかに暮らさせられている人々によく似ていた。

 

 

 

 市民たちは不安のさなかにも、これは確かに憂うべき出来事には違いないが、しかし要するに一時的なものだという印象を、依然もち続けていたのである。

 

 

 

 

 ある朝一人の男がペストの兆候を示し、そして病の錯乱状態のなかで戸外へとび出し、いきなり出会った一人の女にとびかかり、その女を抱きしめながら、自分はペストにかかっているとわめいていた、というようなうわさが伝わっていた。(中略)コタールは注釈を加えた。「われわれはみんな気違いになっちまいますよ、それこそ間違いなしに」

 

 

 

 秀逸な文言は、これらだけではない。しかし、たったこれほどの短文を引用しただけでも、カミュの描くペストが、どれほど私たちの前で進行する事態と符合し、まるで予言されたかのように、政治も、社会も、私たちの心理も、あらゆることが似た様相を呈しているのかがわかる。そして人々は、ペストがその勢いを増す中で、ついにそれが本物の危機であると認識しはじめ、徹底的な措置を取り始める。しかし、病疫を抑え込む措置とは、多くの個人的自由を束縛するものでもあった。生活の自由が失われる中、人々の精神は、新たな兆候を示し始める。それについては、次回で考えたい。

 

 

 

参考文献:アルベール・カミュ『世界文学全集39 異邦人・ペスト・転落・誤解』佐藤朔・宮崎嶺雄・窪田啓作・加藤道夫 訳(新潮社 1960年)

 

 

 

2020.4.28.Shiba