Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

日本国憲法、その民主主義について【日日所感No.4】

 

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梶田年『新憲法釈義』

 


 以前、現代の日本のメディアは、大衆に無思考を浸透させている、というようなことを書いた。今回はそれに深く関係する問題として、日本国憲法について、その一つの主柱である民主主義に焦点を絞って今回は私見を述べたい。

 まず、日本国憲法とは、日本国の「最高法規」であると、日本国憲法第十章に記されている。手元の日本国憲法についての初期の概説書(梶田年『新憲法釈義』)によれば、最高法規とは、「最高権威の法規」ということであり、第九十九条にあるように、全ての公務員はこれを順守しなければならない至上義務を負わされている。また、第九十八条にあるように、最高法規である憲法に反する法律や詔勅、その他のありとあらゆる行為が無効になる。つまり、日本国において、総理大臣であっても、天皇であっても、誰だって日本国憲法に背くことはできないのだ。これこそ、憲法がいわゆる「権力を縛る権力」と呼ばれる所以である。

 そして、その日本国憲法とは、ポツダム宣言の要請に基づき、基本的人権と民主主義の徹底を核とする憲法である。ゆえに、例えば日本国憲法の第一章は天皇制に関してだが、それは日本国憲法の中では重要度の低い問題である。なぜならポツダム宣言天皇制を保存しろなどとは全く要求していないからである。天皇制についての議論は他の機会に譲るとして、ポツダム宣言の第十項によれば、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」(『新憲法釈義』付録より抜粋)とあり、日本国憲法が民主主義と基本的人権をその基礎としていることが見て取れる。これに加えて、ポツダム宣言の第十一項の要求にある通り、日本国憲法の主柱には平和主義もあると考えられるが、これについてもまた別の機会に解説したい。とにかく今回は、日本国憲法の中心には民主主義の思想があるということを押さえてほしい。

 

 

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『新憲法釈義』本扉 梶田年は大審院部長・臨時法制調査会委員という肩書を持つ

 

 単刀直入に言ってしまえば、現代の日本人は民主主義をあまりに軽視している。いや、嫌っているとさえ言ってもいいかもしれない。それは選挙の投票率が圧倒的に低いということや政治活動への無関心・あるいは嫌悪感の蔓延に見てとれる。総務省の調査によれば、令和元年七月の参議院議員通常選挙投票率は、前世代で48.80%、中でも特に10代、20代、30代は、全て30%台という低い水準で留まっている。日本の民主主義は、国民の総意を国政に反映するために、選挙によって国会議員等の国民の代表者を選ぶことを主な手段としている。それは日本国憲法第三章第十五条にある国民の権利である。しかし、それを国民の多くが、現代では半数を超える国民が手放してしまうのはなぜなのだろうか。これについての答えは容易に出るものではない。それこそ、この半世紀ほどの全ての社会動向などを考慮しないといけないような問いであるだろう。そして実は、日本国憲法に規定されるところの民主主義の弱点も、実はそこにあるのである。

 先ほども紹介した日本国憲法の初期の概説書の一つである『新憲法釈義』によれば、日本国憲法の核となる民主主義には、明確な弱点が存在している。それは憲法自体の欠陥ではなく、民主主義という政治形態や思想それ自体が有するものであるだろう。その部分を、長くなるが以下に引用する。

 斯様な関係(内閣と国会の関係。日本国憲法第六十九条や第七十条を参照。)から謂へば行政権を行ふ内閣は立法権を行ふ国会に対して甚だ微力であつて、司法権を行ふ裁判所は、直接には立法、行政に制肘を加へないのであるから、三権分立の作用は国会を中心として行はれるものである。これが民主主義憲法の特徴であつて怪しむにたらないのである。之を実際の国政運営の面から観れば、国会の中心力は衆議院に在つて、衆議院に於ける多数党が自ら内閣総理大臣を指名し其の他の国務大臣の任命に付て半数は議員中から選ばれるのであるから、結局衆議院の多数党が国民の代表者として内閣の実権を掌握することとなり、民主主義政治が行はれるのである。茲に多数党横暴の弊を生ずる虞れがあるであらうが、此れは憲政の任に当る政治家の責任に係るところであつて、結局は斯かる政治家を国民代表者として選挙する国民の責任に帰するのである。故に三権分立の妙味を発揮し憲政の実を挙ぐるには、国民の政治に関する認識を昂めて、国民が其の参政権行使に誤りなきやう、其の自覚に俟つ外はないのである。

 

 

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『新憲法釈義』奥付 昭和21年の11月に初版が発行されている。敗戦からわずか1年と3か月後である。

 

 

 私が参考にしたこの本は、昭和21年に初版が出ている。昭和20年が敗戦の年、つまり1945年であるから、その一年後には既に書かれていた本である。ゆえに本全体として、また著者の立場も影響していると思われるが、旧体制的な思想が抜けきっていない部分もある。しかし、前に上げたこの部分は日本における民主主義の正鵠を得ていて、さらに日本の戦後政治の未来を予期した観まである。

 下線を付した部分に注目してほしい。日本国憲法における民主主義は、結局衆議院の多数党が実権を握ってしまえるような制度になっている。だから、多数党が横暴政治を行う危険性があると著者は指摘している。多数党が長きにわたって政治の中心に居座りすぎると、どうなってしまうのか、現代に生きる日本人ならもうお分かりだろう。著者はまた、その多数党の横暴は政治家の責任に係るが、政治家の責任というのはその政治家を選んだ国民の責任に帰するという。これは現代では、与党の支持者が良く言うロジックである。現在国会の多数党を為し内閣を組織する与党は国民の信任を得ているのであって、ゆえにその政治の結果は国民の責任になるのである、と。政権に文句をいうなら、野党が選挙で勝てばいいではないか、と。それは実際、間違いではない。しかし、国民の半数が投票を放棄しているという現状を踏まえると、与党が政権を握っているのは国民がそれを望んでいるからと安直に言うことはできないのではないか。むしろ、国民の大多数が政治に興味を失わされているから、国民の総意というものが正常に機能しなくなっているのではないだろうか。

 引用の最終文は、日本国憲法のもとにおける日本の民主主義の前提であり、あるいは未来への警句とも取れるような内容である。三権分立をしかと機能させ、政治を国民全員の福祉のために行うためには、国民の政治に関する認識を高め、国民が皆、参政権の行使を誤らぬように、国民各々の自覚に依るしかないと著者は結論している。つまり、民主主義国家を成り立たせるためには、それを構成する国民一人一人が、自覚を持って民主主義について学び、その思想を行為の上に表していかなければならないのである。政治に関心を持ち、常に内閣や国会議員をはじめ各省庁や裁判所、全ての公務員の行為について監視し、それが基本的人権を制限しないか、憲法に背いていないかを判定しなければならない。何のために私たちは参政権を有しているのか。何のために私たちは公務員の罷免権を有しているのか。それをよくよく考えなければならない。日本国憲法は、徹底的な民主主義、完全な平和主義、基本的人権の全面的保障を謳った、世界で最も先進的な憲法であった。現代においてもそれは変わらない。しかし、日本と言う社会の実情自体が、憲法に沿ったものであるのかは、疑問である。

 民主主義の真髄は、民が主権者であるという点だが、民主主義の弱点もまたそこにあるのではないか。民をうまく操ることができれば、政治をいかようにでもできてしまう可能性がある。つまり、『新憲法釈義』の著者が言うような、多数党(与党)の独裁的な政治に陥る状態というものは、人為的に創作できるということだ。前節で説明した、多数党の独断政治に陥らないための前提の逆を行えばいい。簡単に言えば、国民の政治に関する意識を低めること。参政権の行使を阻害する、あるいは参政権を十分に行使させないように仕向けること。国民に民主主義概念をしっかり教えることをせず、全てを政治家に任せるように誘導すること。そういったことを行えば、国民は愚鈍になり、利権によって票を買収し、独裁政権を立て、日本を亡国とすることも可能であるだろう。

 民主主義は、画期的な思想であるが、それは非常に脆い。その脆さを、国民の多くが自覚しなくなるとき、民主主義は崩れてゆく。さて、現代の日本はどうだろうか。国民は皆、政治に関して強い関心を持ち、選挙には必ず行き、場合によってはデモなどによって政治への請願権をしっかりと行使しているだろうか。政治家や公務員は、自分の支持者など一部の人間だけでなく、国民全体への奉仕者となっているだろうか。

 この文章を読んでくれる人がどれほどいるのかはわからないが、もし読んでくれる人がいるならば、以上の問いに対して既に答えは有しているだろうと思う。あなたはその答えを大事にすればよいとして、ここで私自身の考えを少し述べたい。

 人間は、頭を使うために非常にエネルギーを使う。それは生物学的な事実である。だから、脳のエネルギーをできるだけ保存したいように思う。例えば仕事や学校から疲れて帰ってきたら、もう頭を使いたくないから、ぼーっとテレビを見る。ネットでもよい。そこでは毒にも薬にもならないような、取るに足らないコンテンツばかりが流され、それらは人々に無思考でいることを許す。私たちのある一日を満足させるエンターテイメントには、その日国会の前で行われていた抗議活動は映されない。沖縄の海で基地建設のために埋め立てられてゆく珊瑚の様子は映されない。原発事故で故郷を追われた人々の苦境は映されない。家もなく都会をさまよい職を探す日雇い労働者の姿は映されない。経済的な理由で進学をあきらめなければならない多くの子供たちの姿は映されない。家庭内で暴力を受け、職場でハラスメントを受け、行き場を失って苦しむ女性たちは映されない。メディアは権力にのまれ、束の間の快楽を提供するだけで、人々を徐々に無思考にし、そして、民主主義はこの国から音もなく消し去られる。

 もちろん全てが悲観的なわけではない。そういった日本の改善しなければならない状況を報道するメディアもある。ただ、日本人の大多数は、同じ日本の社会の中で起こっている問題に対して、どれほどの関心を持っているだろうか。その答えは、この文章を読んでくれたあなた自身が身近な人々の中で確認してほしい。

 昨今のコロナウイルスの問題においても、政治家、芸能人、ミュージシャンが、国民は批判をしないで、今こそ一致団結してウイルスと戦おうなどと、中身の何もないきれいごとを抜かしていたが、批判する精神こそ民主主義の精神なのである。国民は常に権力を監視しなければならないことは何度も述べた。それは緊急事態だからこそ、国の存亡や多くの人命がかかっている時だからこそ、大事なのではないか。日本国憲法は、世界史に残る民主主義の二つの金字塔を参考にしている。一つは1776年のアメリカ独立宣言。一つは、1789年のフランス人権宣言である。これらは選挙によって成立したものではないし、身分の上から下まで国民が一致団結して行われたものでもない。様々な対立と激しい闘争の中で血みどろで勝ち得た思想なのである。そして民主主義とは、もっと言ってしまえばただ選挙に行くのみでは足りない。民主主義は、民が主となる思想である。つまり、民のためにならない政治に対しては、徹底的にこれに抗戦し、民のためになる政治を勝ち取らねばならない。何としてでもそれを行わないといけない。場合によっては、その手段は問われない。フランスやアメリカのデモを見るとよい。日本のデモなどが大変平和的であることがわかる。政治権力に徹底的に圧力を加えることで、民の言うことを聞かせる。それが民主主義なのである。選挙や多数決で決めることが、民主主義なのではない。私はそう思うのである。

 最後に、日本国憲法の第十一、十二条を引用して、まとめとしたい。以上で私が述べてきた考えは、日本国憲法のこの部分から来ている。

 

 

第11条 

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

 

 

 

 ちなみにであるが、よくこの国民を日本人とか日本民族と置き換えて議論している人々がいるが、それは明らかな誤謬である。国民を日本国憲法が定める三大義務(勤労、納税、教育を受けさせること)を果たしている人々と定義すれば、日本国内で働き、税を納め、子どもがいる場合にはその子に教育を受けさせていれば、たとえ民族が違っても、いかなる国の出身であっても、日本国民なのである。差別を行ってはいけない。全ての国民は個人として尊重されなければならないと、憲法にも明記されている。人種や出身国が違うだけで、「日本から出ていけ」「祖国へ帰れ」などと発言する者は痴愚と言わざるを得ない。そういった差別的発言をする者こそ、日本国憲法に違背する行為を平然と行っているため、日本国から出ていく方がいいのではないかと私は思うのである。

 長くなってしまったが、書きたいことはおおよそ書けたので、この辺で締めさせていただく。最後まで読んでくれた人には感謝を申し上げたい。ありがとう。

 

 

 

・参考文献

 ・梶田年(大審院部長)『新憲法釈義』(法文社 1947年)初版は1946年11月。引用部はp59より。

 ・国立国会図書館日本国憲法の誕生」(https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html#s3)2020年4月23日アクセス

  ・総務省「国政選挙の年代別投票率について」

https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/)2020年4月23日アクセス

 

 

追伸・補足

 日本国民であるということは、国籍法(こちらに記載→ http://www.moj.go.jp/MINJI/kokusekiho.html)に基づく。国民の義務を果たしたかどうかとは基本的に無関係であることを、謝罪し訂正したい。しかし、国籍法に基づけば、条件はやや厳しいが外国人は帰化し日本国民となることができる。その場合、国民は皆平等に扱われるべきであるため、人種や出身国によって差別することはやはり憲法に違背するのである。

 

 以上で上げた参考文献以外に、参考になりそうなwebページを紹介します。私もすべてに目を通しているわけではないのであしからず。

 ・日本弁護士連合会「憲法って、何だろう」(https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/constitution_issue/what.html

・法学館憲法研究所「日本国憲法の逐条解説」(http://www.jicl.jp/old/itou/chikujyou.html

衆議院日本国憲法」(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm

 

 

 

2020.4.23.Shiba