Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

 

 今日、尾崎のアルバムを買った。たぶん三日くらいで届くだろう。

 僕は尾崎をしらない。尾崎っていうのは、尾崎豊のことなんだけど。会ったこともないし、ライブにも行ったことはない。僕が生まれる前に、尾崎は死んだ。曲だって、テレビか、YouTubeに合法なのか違法なのか怪しい形でアップされてる動画で聴くくらいだった。十五の夜。I love you. そういう曲が有名で、それだけしか聴いたことがなかった。不良の曲と大人は言った。親も別に好きそうではなかった。だから僕は尾崎を知らなかった。

 まだ診断が降りてないからわからないけど、僕は精神を病んでる。それは傍目に見てもわかると思う。僕はなにもできなくなった。それでもがんばり続けた。もう頑張る理由もなかったのに。誰にも愛される資格なんて僕にないし、実際誰も愛してはくれなかったし、小さいころからいじめ続けられてもう幸せになれるはずもないのに。毎日眠れない。眠れても、夢の中で怪物が暴れる。怪物は親の顔をしていたり、友の顔をしていたり、先生の顔をしていたりする。それらが暴れる。蜂が手を指してくると思って目を覚ましたはずなのに、部屋にまだ蜂が飛んでいる。時間の感覚もない。夜だと思えば朝だし、朝だと思えば夜である。少しでも気を晴らそうと本を読んだりしていると、それすら責める人間もいる。誰にも理解されないのが当たり前になっていた。がんばる理由もない、目的もない、自分もない、なにもないのに頑張らないといけないという思いだけはある。やりたいことなんてないのに。

 生きたくないのに生きたいと言った。不幸なのに恵まれていると言った。相手が悪いと思うのに、自分が悪いと言った。理解してほしいのに、理解されなくていいと言った。愛してほしかったのに、何も言えなかった。愛してほしいと言えなかった。殺したいほど憎んでいたのに、口では愛していると言っていた。

 昔から、生まれたときから、言葉が自分のものではなかった。言葉はいつも、自分の感情と真逆を言った。そうしなければ、生き延びられなかったから。嘘でも大人の望んでいる自分を演じないと、生きてはいられなかったから。殴られても、責められても、無視されても、拒絶されても、それでも笑顔を見せて、愛していると言わないといけなかった。

 僕は疲れているけど、まだ疲れていると言えない。きっと愛してほしいのだけれど、それはもう、予想でしかない。感情は押しつぶされ過ぎて、見えなくなった。

 尾崎の歌を聴いていた。最近毎日、暇な時間があれば、ずっと尾崎の曲を聴いている。朝から晩まで、尾崎の曲を聴いている。シェリーを聴いてる。ずっと理解されないかなしみを、尾崎は歌ってくれた。さみしくても、さみしいといえないつよがりを、尾崎は歌ってくれた。弱い人間の、おろかな人間の、いいしれぬ痛みを尾崎は知っていた。僕は、尾崎の歌を聴いているときだけは、自分でいられる。尾崎の歌だけは、僕がここにいていいことを、教えてくれる。何度聴いても、何度聴いても、聴くたびに涙が止まらなくなる。涙を流してる時しか、僕は僕でいられない。喉がかすれても歌う尾崎の声が聴こえる。愛されなくても、あいすべきもののために叫ぶ尾崎の声が聴こえる。今まで僕は、芥川とか、啄木とか、敦とかすきだったこともあるけど、日本が生み出した最高の芸術家は、尾崎豊だと思う。世界の宝だと思う。尾崎のおかげで、僕は生きていられる。尾崎がいなかったら、もう僕は死んでいたろう。尾崎はいつも、泣きながら歌っている。魂が叫んでいる。それはきっと、尾崎もぎりぎりで生きているからだ。尾崎も愛を与えられなかったからだ。尾崎は天才すぎたから、皆ミュージシャンとしての尾崎は愛してるかもしれないけど、人間としての尾崎豊を愛している人は、どれほどいるだろう。百万人に愛されることより、たった一人に愛される方が、人間を救うことだってあるんだ。尾崎の歌は、たった一人に愛されなかった男の歌だ。だから皆の心をつかむんだ。

 無様にいきていてごめん。ごめん。少し出かける。