Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

あの夜のこと。命のこと。3

 車内は北へと帰る人で満たされていた。満員ではなかったが、座席は大方埋まっていた。こんな夜遅くまで、働き、皆必死に生きているのだと思うと、僕は言い知れぬ悲しみに胸がおおわれた。尾崎がイヤホンの奥で泣くように歌っていた。疲れた人々の横顔が、僕の目の底に焼き付いて、人生のむなしさを思わせた。尾崎は、本当の愛を歌っていた。この世界にはまだ、愛があるのだろうか、本当の愛がどこかにあるのだろうか、そう思った。僕は、その本当の愛を見つけるために生きているのだろうか。

 電車が初夏の夜を揺らしていた。僕はその緩やかな夜の波にのまれて、涙を流していた。

 電車は夜の闇のなかを進んでいく。隣に座っていた老人が、少しうっとおしそうに僕を横目で見ていた。でも、車内は静かに、僕の涙さえも、僕の悲しみさえも、受け入れてくれたようだった。そうしていつしか、僕は気を失うように少し眠っていた。

 北へ向かうほど、乗客は減っていった。籠原を過ぎたあたりから、空席の多さが目立った。僕は思いついては尾崎の曲をリピートし、何度も何度も、彼の消え入りそうな叫びを噛み締めた。実家の庭を思い出した。あの場所に、僕の居場所はあるだろうか。幼いころから僕を愛するふりをして、縛り付けた両親に、僕はどういう顔をして会えばいい。あの二人は、どういう思いで僕を育てて、今、どういう思いで僕を見ているんだろう。僕は、いつになったら本当に愛してもらえるんだろう。

 僕は今、どこにいるんだろう。どこに行けば、いいのだろう。

 電車は県境を越えて故郷の地へ入った。細い雨がチラチラと光っているようだった。もうすぐ実家の最寄り駅に着く。僕は何だか、どうすればいいのかわからなかった。

 人気のない真夜中のホームに、電車は静かに滑り込んでいく。ドアが開き、暗闇が口をのぞかせた。僕は倉賀野で降りた。そこが僕の故郷だった。誰もいない街を歩いていく。小学校の前を通り過ぎる。小学生の頃毎日歩いた通学路に沿って家まで行く。あの頃の僕は、どんなふうに街を見ていたのだろう。今では何もかもが小さく見えた。

 大通りには車がまばらに通っていた。道は全て繋がっている。この愛憎混濁する故郷の道も、果てしなく辿っていけば東京に着くと思うと、なんだか不思議だった。街灯が雨に濡れた街を照らした。虫が音もなくその光に飛び集まっている。

 僕の実家は、その地域で一番大きな神社の向いにあった。神社の前の通り、つまり僕の実家の前の通りが、大通りと交わるところには、大きな鳥居のようなものがあった。僕の実家は恐らく、広い意味では神域の一部にあるのではないかと思っている。丹塗りの柱は、夜の闇の中でほの明りに照らし出され、神妙な趣を醸した。

 神社の門前に立つと、奥の社が琥珀色に光に包まれていた。白と赤と黄色の中間のような色だった。時間が止まったような静寂さだった。幼いころ、この神社の境内でよく遊んでいたことを思い出した。祖母が僕の事をよくかわいがってくれた。それは今でも変わらない。僕は父母には複雑な思いがあるが、祖父母には愛情しかもらったことがない。初孫だから、とことん可愛がられたし、それでよかった。僕は祖父母が好きだ。父母よりもずっと。

 実家の庭に着いた。僕の実家は、通りから入って奥に長く庭が広がっている。手前に祖父母の家、奥に父母の家がある。庭は繋がっているが、建物が違うということだ。その他に農具や自転車などを入れておく物置と、祖父母の古い品々が収められている納屋、そして納屋と同じ形で、昔は祖母が大正琴の教室を開いていた建物がある。祖母は大正琴の師範で、小さいころは僕も弾かせてもらった。学校から帰ると大正琴の独特な渋い響きがよく聴こえていたことが懐かしく思えた。あの頃にはどうやっても戻れないのだなと思った。

 祖父母の家には電気がついていたが、恐らく寝ている時間だろうと思った。もう午前零時を過ぎていた。父母の家、つまり僕の実家の方も、まだ電気がついていて、テレビの音が洩れていた。

 玄関の鍵は開いていた。ここで入れば、まだ今日は疲れた体をベッドで癒せると思った。それでも、僕は父母のせいでこんな自分が出来上がったことを知っていたから、入りたくはなかった。二人が僕に気付いて、僕の育て方を間違えたことに気付かないうちは、僕はもう彼等と和解はできない。彼等と口を利くこともできないと思った。

 リビングの窓から温かい光が洩れ出している。さっきから小雨が降っていた。半袖の先に出た僕の白い腕が、六月の雨に濡れて、寒さを感じた。今入れば、今入れば、今入ればと思ってみても、僕の殺された心は、頑なにそれを拒んだ。僕は踵を返して、庭の石ブロックに座って休もうとした。危険なものが置いていないか確かめるために、携帯のライトをつけた。すると、そのブロックの上には数匹のなめくじがうねうねとうごめいているのを見つけた。

〈続く〉