Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

あの夜のこと。命のこと。4

 やはり家に入ろうともう一度玄関の前まで行ったとき、家の中から笑い声が聴こえた。父と母のものだった。テレビ番組を見て笑っているのだろう。僕はなんだか、もう心が無くなるような気持がした。僕はその日、両親への抵抗のために、家族の連絡ラインを無言で抜けていた。そんなことをしたことのない僕だったから、二人は驚いて落ち込んでいるだろうかと思っていた。何かの奇跡を期待していた。でも、彼等にとっては、僕がこうやって一人で苦しんでいるのも、全く日常茶飯事なのかもしれなかった。もう僕は無になった。僕の信じるものは何一つなかった。僕は死ぬことが怖くなくなった。

 僕は祖父母の管理している納屋の前に座った。軒が短くて、雨はしのげなかった。そこで寝ようと思った。明日には冷たくなって死んでいるかもしれないと思ったけど、それもまたいいなと思った。僕は死にたかったわけではないが、生きたいとも思わなかった。誰にも愛されないなら、生きていても意味がないと思った。横になるほどのスペースはなかったから、ひざは立てて横になった。背負っていたバッグを枕にした。ペットボトルやペンケースなどが乱雑につまって、それがゴツゴツと当たり頭が痛くなった。雨が顔にかかっていた。眼鏡に水滴が滲んで、夜の闇さえも見えなくなった。僕は、死ぬんだろうかと。

 やがてリビングの電気は消えて、父と母はそれぞれの寝室へ行った。二人はある時期から一緒の部屋では寝なくなり、母は二階、父は一階で寝ていた。その理由は知らなかった。知りたくもなかった。僕は玄関の施錠の音を確かに聴いた。これでもう戻れなかった。僕はしっかりと一人になった。

 母が寝室でなにか独り言を言っていた。その内容は聞き取れなかったが、僕の名前が出たような気がした。そしてその後、母のすすり泣く声が聴こえた。なんで泣いているのか僕はわからなかった。僕がもう死んでいるかもしれないとでも思っているのだろうか。それならそれを事実にしてやりたいとも思った。でも、僕はまだ母の愛を全く否定しきることも出来なかった。僕はもう、何もかもがわからなくなって、ただ座っていた。

 そうして二時間くらいそこにいた。途中、あまりにも孤独に耐えきれずに尾崎の歌を聴いた。眠れるかもしれなかったが、眠ると終わってしまいそうだったから、尾崎の歌を聴いた。自分でも歌った。歌えば誰かが気づいてくれると思った。でも、田舎の無情な雨の音は僕の存在までも消し去った。誰も僕には気づかなかった。僕は泣きながら尾崎の歌を歌った。自分の過去のすべての思いが、その涙に詰まっているような気がした。

 二時間が経って、僕は本当に体の芯から冷え切った。僕は心のない土くれのようになっていた。これで死ぬんだと思った。案外、心は安らかだった。そうして僕は死の方へ傾いていくはずだった。そこから僕が取った行動は、僕自身にとっても意外なものだった。

 僕は寒さと極度の疲労から、生命の自衛本能を取り始めた。僕は祖母の教室になっていた建物の戸を開けようとした。それはがたがたと建付けの悪い音を立てて開いた。昭和平成令和とこの一家の歴史を一隅で見守って来た建物だった。今はどこでも見ることのない古い電気スイッチを押すと、十秒ほど遅れて電気がついた。僕はその中に入って、大正琴のお稽古のためのパイプ椅子に座った。

 雨の寒さからはしのげた。僕は少し横になりたいと思った。もう午前三時くらいになっていた。夜の大半を外で過ごした後だったから、僕は疲れ果てていた。パイプ椅子には座布団が付けられていたから、それを引きはがして枕にした。畳は硬かった。背中が痛くなって全く寝られなかった。僕はまた尾崎を聴いた。尾崎を歌った。そうやって何時間も過ごした。

 視界が常にぼやけていた。夢の中にいるような、あの感じ。これは夢かもしれないと思った。涙ばかりが出た。いつのものかわからない壁掛け時計が、ゆっくり、ゆっくりとしか進まなかった。今はその苦しみを噛み締めろと僕に言うように。時間が止まるほどの遅さで僕に夜の重さを押し付けた。人生の重さだった。僕の二十一年間の過去のすべての重さだった。

 僕は零歳のとき、障害を抱えて生まれた僕を思い出した。僕は三歳のとき、弟が生まれて寂しい思いをした僕を思い出した。僕は四歳のとき、長男として弟の世話をさせられていた僕を思い出した。僕は五歳のとき、父親に殴られ蹴られていた僕を思い出した。僕は八歳のとき、父親の愚痴ばかり母に聴かされていた僕を思い出した。僕は九歳のとき、酒を飲んで暴れる父親に恐怖した僕を思い出した。僕は十一歳のとき、同級生とうまくやれなくて毎日泣いていた僕を思い出した。僕は十二歳のとき、足の障害の治療が苦痛だったことを思い出した。僕は十三歳のとき、初めて恋をした僕を思い出した。僕は十四歳のとき、人に嫌われるつらさを知った僕を思い出した。僕は十五歳のとき、ネット上でばかり生きていた僕を思い出した。僕は十六歳のとき、自分が取るに足らない人間だと気付いた僕を思い出した。僕は十七歳のとき、人生ではじめて夢を持った僕を思い出した。僕は十八歳のとき、夢の全てが破れて何も信じられなくなった僕を思い出した。僕は十九歳のとき、それまでとは違う世界に出会った僕を思い出した。僕は二十歳のとき、自分が何者なのかをがむしゃらに求めていた僕を思い出した。

 僕は二十一歳の今、自分の人生全てを思い出していた。

〈続く〉