Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

あの夜のこと。命のこと。5

 街は朝へと向かっていく。世界はまた僕を殺せなかった。いや、僕を殺せなかったのは僕自身かもしれない。午前三時半、僕は頭痛に耐えきれなくなって家を出た。どのみち眠れないのだ。疲労は限界だし、それでもここではないどこかへ行きたかった。僕は自分で自分の人生を決めたかった。誰にも縛られたくなかった。

 外はまだ暁闇の前だった。通りには人の影もない。たまにトラックが通り過ぎていく。それだけだった。僕は町内を一周しようとした。母校の中学の前を過ぎ、同級生の友だちだったやつの家を過ぎ、角を曲がり、和菓子屋の前を過ぎ、行く当てもないまま、夜と朝の間の街を歩き回った。僕はもう何も見たくないし、感じたくなかった。だから歌った。尾崎の歌を歌いながら歩いた。できるだけ大きな声で歩いた。午前四時前の街、尾崎豊の曲を歌いながら道路の真ん中を歩く二十歳過ぎの男。その異常さになんとなく気づいていた。でも、僕はやめられなかった。この冷たい街の風に、僕は歌い続けるしかなかった。

 空が赤かった。北の空だった。夜明けにはまだはやかったから、火事でもあるのかと思った。それにしては街が静かだった。僕は幻覚でも見ているのかもしれなかった。自分が正しいか間違っているのか、それさえ確かめようがなかった。僕はそのまま歩き続けた。疲労も度を超すと、体は何も感じなくなっていく。脳が完全に機能を停止したようだった。止まってしまった脳、止まってしまった時間。僕はあの頃から、全く変わってやしない。過去のトラウマを全て引きずって、僕は歩き続けてきた。その重さを、体の全てで感じた。

 僕は家に帰っていた。動物の帰巣本能なんて信じないけど、僕の足はまた同じあの家の庭に戻っていた。僕は仕方ないから、またさっきと同じ建物に入った。ガラ戸が祖父母を目覚めさせないかとびくびくした。でも、目覚めても欲しかった。誰でもいい、はやく僕を見つけてほしかった。僕にとっての愛は、まず僕を見つけてもらうことだと思った。僕はここにいる。ここにいる僕を誰か、見つけてくれ。そう思っていた。

 そこからまた僕は歌を歌っていた。夜が明けるまでずっと歌っていた。それしかやることがなかった。お腹が減っていた。昨日の夜のカップラーメンから何も口にしていなかった。昨日の昼間に買ったグミ菓子の残りを一気に口に放り込んだ。色々な化学的な果実の香りが口内に広がった。ジャスミン茶の残りを飲んだ。口のなかが謎の風味で満たされた。僕の悲しみはそのままだった。

 夜を透かしたガラスに映る僕を見た。髪がくしゃくしゃで、涙で目は腫れていた。瞳は綺麗だった。口は半開きで、体はぎくしゃくしたロボットみたいだった。僕は壊れていた。生まれたときから、ずっとそうだった。僕は、出来損ないだった。でも今は、その出来損ないが、これ以上ないくらい、愛おしく思った。こんなにボロボロになるまで、僕は頑張ったのだ。もう、これで終わってもいいように思った。壊れた出来損ないは、ここで死んでもよかった。

 僕は待っていた。四時半を過ぎた。外に出てみた。鳥たちのさえずりが高く響いた。朝靄が僕を包んでいた。街を包んでいた。世界は新しい一日へと向かっていく。自然というものの無情な強さを感じた。

 そのまま僕は椅子に座って待っていた。すると、祖父母の家の戸が開く音がして、そのまま祖母が僕のいる建物の前に来て、僕の名前を呼んだ。その瞬間、僕の一晩の戦いは終わった。僕は長い一晩の戦いに、僕の人生に対する戦いに、そして僕の生命に対する戦いに、耐え抜いたのだ。僕は勝利した。勝った気などなかったが、それは確実に僕が生き抜いたということの証だった。僕は死ななかった。死んでもおかしくなかったのに、死ななかった。僕は助かったのだ。僕はまだ、生きることを選ぶことができた。

 僕は祖母に連れられて祖父母の家の中に上がった。

〈続く〉