Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

ポーラスター

 子ペンギンは、今日も北極星を眺めていた。そして帰らぬ父親のことを思った。父は地吹雪の中を出ていった。餌を取りに行ったのだった。月と日が過ぎ行くのを、幾度数えただろう……。母親も自らも飢えていた。飢えてなお、父親を信じる思いだけで生きていた。

 子ペンギンは、凍てつく氷の大地の上で生まれた。生まれてすぐ、産卵で体力を消耗した母親は、海へと栄養を摂りに向かった。そして同時に、母親は、その子供のために餌を持ち帰るという使命も受けていた。子を産んですぐに、その疲れ果てた体を引きずって、安全な繁殖地から遥か隔たる氷海へと、地吹雪の中を進む母親は、自らの命を懸けて新しい時代の生命をつなごうとする気魄の結晶であるように見えた。

 まだ卵であった子のもとに残される父親もまた、母親と同じような過酷さを、黙々とその一身に背負っていた。草も木もない、他のいかなる生物も生存を許されないような、極寒の大地の上で、父親は、極北の周りを星々がめぐる夜の回数が、およそ六〇を越すほどの期間、子を温め続けなければならなかった。母親が無事にもどるまで、父親は子のもとを離れられないため、一切の食事を絶って立ち続けなければならなかった。時に地吹雪が吹き付け、飢えと激寒になぎ倒されそうになりつつも、灯りはじめた新生の小さな兆しを、父親は守り続けた。やがて子は孵化し、凍える現世の苦しみの中に、生まれ落ちた。父親は、自らの細胞を削って出した蛋白質を子に与え、母親が戻るまでのつなぎとした。気の遠くなるような自己との戦い、それにぎりぎり耐えうるだけの肉体を、神から預かった父親は、その小さき者への愛だけで、二つの命を繋いでいたのだ。

 母親が帰り、その胃袋の中に入っていた大量の魚を、子に受け渡した。もう測り知れないほどの時間、断食を強いられた父親は、今度は自らが氷原を出て、寒海へと向かった。休む暇はなかった。栄養を蓄えておく力もまだ十分にない、わが子の生命は待ってはくれない。常にその身を育てていくための、energyを求めている。

 子ペンギンは、朧な視界で星空ばかり眺めていた。母親は常に傍についていた。周囲には、同じようにたくさんの母と子が、父親の帰りを待ち続けている。ただでさえ死にかけている父親は、海へと向かう道の半ばで、力尽きることもある。その際は、母親と子ペンギンの命も危うくなる。三身の運命が一体となって、父親の肩の上に圧し掛かっていた。

 日がめぐり、月がめぐり、初冬に生まれた卵は、今既に春の日を迎え、黄金色の日差しの中に、鈍色の産毛を輝かせていた。子ペンギンは、まだこの世界が苦悩の連続であることを知らない。母親はこの世界が苦悩の連続であることを知ってなお、生命の縄を純朴に結んでいる。父親は、まだ帰らない。

 やがてcolonyの他の父親たちは帰って来た。母親たちは歓喜の声でそれを迎えた。自分の妻だけが出せる、その声めがけて、夫たちは餌を届けるのだった。春を迎えた氷原の雪の上に、親たちは愛の交感を求めた。子たちはその愛の温もりに包まれて、大きくなってゆく。

 しかし、その子ペンギンのもとには父親が来なかった。それでも母親は待ち続けた。待つこと、それこそが愛であった。自らの選んだ相手を疑うことは、自らを疑うことでもあったからだ。母親は父親の肉体も、そこに宿る魂も信じていた。だから待ち続けた。

 他の家族では、父親と母親の交代の時期を過ぎた。それでも父親が帰らぬ、その子ペンギンの母親は、ついにある決断を下した。それは、父親が死んだという断定だった。これ以上待てば、自分も子も、諸共死ぬのみだと悟った母親は、流氷のみの待つ、あの冷海へと急いだ。子はただ一人、氷原に取り残されることとなった。

 子ペンギンは、一人で待ち続けた。夜になれば、風が自らの幼い皮膚を打ちつけた。その痛みから守ってくれる親は、いない。他の子供たちが集まって、Crècheを形成するには、まだ皆幼すぎた。親が傍についている必要があった。

 子ペンギンは、極寒の夜を一人過ごすしかなかった。やはり北極星を見つめていた。あの星だけは、決して大海に沈むことが無かった。月も日も、多くの星々も、必ず大海に沈む時が来る中で、極北に坐すあの星だけは、不沈の覚悟を抱いていた。子ペンギンは、その大いなる決意のようなものに、あの日の遠ざかりゆく父親の背影を見たようだった。

 母親が戻ってきて、子ペンギンは餌を与えられた。母親は休むことなく、すぐに海へと向かう。すでに、子ペンギンに必要な餌の量は、母親の胃袋の大きさだけで支えられるものではなかった。ゆえに、子ペンギンは痩せていた。それでも、生きることは中断できなかった。生存に意味などなく、その中には苦しみしかなくとも、子ペンギンは、生命それ自体のぎりぎりの強さを、小さなその一身に満たしていた。そして帰らぬ父親のことを、何度も思い出した。そのたびに、北極星が輝くようだった。

 周囲の子供たちも、必死で生きていた。両親がいるとはいえ、生き抜くためには必死になって、餌を食べなければならない。親たちも、自分以外の子供に与える餌はない。まれに実子が死亡した親たちが、違う家族の子供を奪って育てることがあった。しかし、それも大体はうまく行かなかった。子が生きがいになるのか、生きがいを子に見出すのか、何のために生きるのかなど、誰も知る由はなかった。それが大人であっても、子どもであっても。ただ、生きるということそれ自体を、繰り返していくしかなかった。

 厳寒の極地に花は咲かない。草木も萌え出ずることはない。冷酷な、偉大なる正午の静寂の中では、あらゆる時間が止まってしまったように見える。幼子を脱する頃の子ペンギンには、生きるということが、ただひたすらに苦痛を折り重ねていくことであるということを、直観するだけの力があった。餌を親に貰い、それで生存を繋ぐだけの生活。やがて親の不在には、同じくらいの年若さの仲間たちと寄り添い合い、成人となる日の戦いの場である、あの氷海へと、徐々に進んでいくのだった。途中寒さに倒れる者もいた。天敵に襲われる者もいた。人間に捕獲される者もいた。飢えて骨のようになり、死んでいく者もいた。しかし、子ペンギンとその仲間たちは、歩みを止めることはなかった。歩むことが生きることであり、生きることは食べ、そして進むことだった。

 その子ペンギンは果たして、海へとたどり着いた。かつて両親が出会い、そして、自分という存在を生み出す契機となった場所。かつて両親が、自分のために命を賭して戦っていた場所。海は、自分という存在の過去の故郷であり、自分という存在の未来の戦場でもあった。子ペンギンの母親は、もう死んでいた。それを子ペンギンは知らなかった。知らずとも悟っていた。

 子ペンギンは、もう自分で立つだけの力はあった。あとは、切り立つ氷の断崖から、凍てつく海の中へと飛び込む勇気だけだった。仲間たちも、海を前にして立ち止まっていた。子ペンギンは断崖の先を見た。海は、全てを飲み込む暗黒の魔物のように、大きく口を広げていた。潮が渦を巻いて岩肌を叩けば、波は白い飛沫となって砕け散った。

 太陽の出ているうちには、誰も飛び込む者はなかった。夜の闇の中で、仲間たちは海の底の黒さに怯えていた。ただあの子ペンギンだけは、やはりこの夜も北極星を見ていた。不可能を越える命の力強さを教えてくれた父、全てを包む愛の光を教えてくれた母、そして、父と母の愛と命を一身に引き受けた自分……。極北に輝く星は、唯その一点から世界を照らしていた。その一点に向かって、自分は向かっていくのだと思った。全てはあの一点から生まれ、そしてその一点へと還っていくのだと悟った。

 夜明けはまだ遠い。しかし、明日の朝になれば、自分は飛んでみるしかない。極北に辿り着くために。生命のtruthに、愛のverityに、辿り着くために。

 子ペンギンは、そんなことを思いながら北極星を見ていた。

 子ペンギンは、いつまでも北極星を見ていた。