Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

つばさをください

鬱になると朝の輝きが

苦しみに変わる

カーテン越しの朝の光が

僕の精神を殺しにかかる

すべて美しきものが

僕の精神を殺しにかかる

それでも前を向いて

生きなければ

生きなければいけないのだろうか

色々な向精神薬

副作用で内臓がめちゃくちゃに

なっているから

今日も死ぬほどの腹痛と

頭痛と倦怠感と焦燥を抱え

それをまた薬で打消し

そんなことをしてまで生きるのは

生命として

ひとつの生命として

まっとうな事なんだろうか

家を出る前は不安に苦しみ

家に帰れば下痢に悩まされ

愛してくれる人はおらず

ただ一人で自分を傷つけ

薬で現実から逃避し

酒で自暴自棄になる

睡眠薬で無理矢理眠る

そんな毎日

 

つばさをくださいが聴きたくて

YouTubeで探して

聴いてみた

あの頃の僕は

こんな歌を平気な顔で

歌っていたけれど

今の僕にこの歌は

重すぎて

ただひたすらに重すぎて

歌うことなどできやしない

富や名誉ではない価値など

この腐れた世の中にあるものか

そんなものがあるならば

僕はどうして

こんなに苦しまねば

ならないのだ

つばさがほしい

僕はあの頃よりも切実に

つばさがほしいと思ってる

神様どうかお願いします

僕につばさをつけてください

大空に羽ばたける勇気をください

一度でいいので

あの青い大空を

飛んでみたいのです

子どものとき

夢見た自分の

その延長に

僕はいないから

僕はもう

飛んでしまうしかないのです

神様どうか僕に

つばさをください

曲雨

 雨も曲がってゆくのだ

 この小さく歪な街では

 目の前に尾を引く光がゆらめく

 酒と薬で幻覚もどきを

 見ていてはまた外へ目をやり

 思う

 歪んでしまったのは

 僕なのか

 世界の方なのか

 

 人間も終わってゆくのだ

 この小さく冷たい街では

 通りには機械のように泥人形のように

 同じ格好をした者たちが

 進んでは感情を欠落しやがて

 死ぬ

 その時まで何を思い

 何を感じ

 生きていくのだろうか

 

 生命はもはや無いのだ

 この閉じた断絶の街では

 世界は既に無機質に支配されて

 誰もが幻覚をたよりに生きている

 人間が人間でなくなり

 もう

 後戻りはできない

 無になり

 ただ無になってゆく

 

 

 

 唯汚れた水の窪に流れ行く如く

 人間の深淵へと落ち之く夕暮れ

禁罪

「あなたがたはまた荒野で、あなたの神、主が、人のその子を抱くように、あなたを抱かれるのを見た。あなたがたが、この所に来るまで、その道すがら、いつもそうであった。」(申命記第一章三十一)

 

 

 

 ああマリア様

 僕は今罰を受けています

 生まれたことに対する罰を

 僕は罪を犯したのです

 僕は人を裏切りました

 神を欺いて生きてきました

 だから僕は罰を受けるのです

 

 ああマリア様

 あなたはなんてお美しい

 あなたは服の襞まで美しく

 僕は盲目になってしまいそう

 あなたは全ての罪人の傷を

 癒す温もりを御顔に宿して

 救いの光をもたらしています

 

 ああマリア様

 僕の罪もあなたはきっと

 癒してくださるのでしょうか

 その子の身体を労わったように

 あなたは僕の傷ついた心も

 救ってくださいますか

 マリア様、愛しております

 

 マリア様、愛しております

 マリア様、愛しております

 マリア様、愛しております

 マリア様、愛しております

 

 マリア様、あなたがいらせば

 僕はもう、死んでもいいです

ここ最近の状態について

 前の水曜日に、精神科に行った。そこでは、以前受けた文章完成テスト(SCT)の結果のフィードバックと、通常診察が行われる予定だった。そのフィードバックのためのカウンセリングを受けたのだけど、なんだかよくわからなかった。テストの結果も明確な疾患名として出るのかと思いきや、曖昧にされていた。質問すればよかったと後悔している。精神科医の先生による通常診察では、やはり鬱状態が改善しないということで、今まで出されていた抗不安不眠薬に加えて、抗うつ剤SSRI)が出された。次回の予約を取り、薬局で薬を買い、ついに僕は病人になったんだなという自覚と、将来に対するぼんやりとした不安だけが残った。

 SSRIは効いているのだろうけど、よくわからない。たしかに、悲しみで涙があふれてくることはなくなったし、多少眠れるようにもなったと思う。しかし、同時に前以上に落ち着きがなくなり、常に体がそわそわする。目に視えない何かに対する焦りや不安みたいなものが常に付きまとう。食欲なども戻らない。むしろ減ったかもしれない。めまいと倦怠感が四六時中襲ってくる。頑張れば本などを読んで、思考を巡らせることはできるようになった。ただ、それも調子の良い時に限る。日中の半分くらいは横になっていて何もできないし、動けたとしても何かが出来るわけではない。かなり頑張って食事の準備くらいだ。

 人と話す間は、少し気が楽になる。誰かと関わっていないと、本当に不安に押しつぶされて消えそうになる。特に自分が好意を持っている相手に裏切られたり、捨てられたりすることが怖くて怖くてたまらない。たぶん僕は今付き合いを持っている人たちに捨てられたら死ぬだろうと思う。あまり周りの人に負担を押し付けたくないから、こんなことは口で言わないけれど、僕はすぐにでも消えてしまいたくなることがある。昨日も夜中、よく眠れずに起きてしまって、台所に水を飲みに行ったとき、出しっぱなしの包丁の刃が僕を誘ったように感じた。

 最近すごく優しい人と話すことがある。その人は本当に優しいのだけれど、たぶん僕以外にも優しいのだろう。僕はその人が優しく振る舞う他人の一人でしかない。その人には特別な存在がたぶんいて、その相手にだけ見せる姿がある。それは弱い姿かもしれないし、強がりかもしれないし、甘えかもしれない。それを僕はみることができない。僕は誰かの特別であることができない。僕へのやさしさは、弱者への憐れみ以上のものではない。

 頭を使うことが苦手になった。不安ばかりがあるんだけど、それを解決する方法が考えられない。抗うつ剤抗不安薬も、脳の機能を落ち着けてしまう。だから常に眠気がある。倦怠感がある。病気の症状を治すために薬を飲んでいるはずなのに、これでは薬で病気を加速させているような感じだ。でも薬がなければ寝ることもできないだろうし、もっと突発的で衝動的な行動をとってしまう。理性で抑えられないことが多い。薬のせいかしらないけど、時々本能的衝動みたいなものが身体反応に現れてくる。身体反応が抑えられない。マイナスの感情が無理やり抑えられていることで、感情が捻じ曲がっているように思う。もう尾崎の曲を聴いても素直に泣けなくなった。僕の涙をかえしてほしい。

 うつ病患者は、自分の不幸をひたすらに嘆く特徴があるという。僕もその特徴にもれず、不平をこぼすようになった。それも治療の一つと思うので、色々口に出したり人に頼ったりこうやって文章にしたりするが、それもいつまで続けられるかわからない。本当に苦しい。

 精神疾患というのは心の病だとか言われるが、その実はただの脳の機能不全であると思う。単純化すれば、臓器が病気になっているということだ。それも人間の思考や行動をつかさどる臓器が病になるのだから、人間の全てがおかしくなる。心の病だとかいうから、甘えだとか自力でなんとかできるとか言いだす人間が出てくるのだ。脳の病気と言いきったらどうだろう。

 いざ自分がそういう疾患になってみると、過去の自分の想像力がいかに乏しかったのかがわかる。これくらいのつらさだろうなと思っていたことの数十倍はつらい。もう自分の行動が自分で制御できないのだ。勝手に足が動く、勝手に手が動く、勝手に体が反応する。あるいはその逆で、全く動かなくなる。どこへ行くでもないのに、じっとしていられない。頭が常に痛い。頭の中で虫が動いているような感覚がする。苦しみでうめく、叫ぶ。頭が破裂しそうなほど苦しいのでかきむしる。何かやらなきゃと思うが何もできない。何をしていいのかもわからない。自分という存在が、自分でなくなったような感じがする。

 薬のせいで、常に眠気があるから、よく寝ている。でも寝ても寝ても頭の鈍い痛みは取れない。楽しさなど感じることはなく、悲しみは無理矢理押し込められ、深い憂いと無の感覚だけが支配する。世界が灰色に見える。やさしい人もいつまで僕に構ってくれるだろうか。怖くなる。人に捨てられたら僕は生きていけない。僕はあなたがいないと生きていけない。でもそんなこと言えない。そんなことを言えば、気持ち悪がられる。自立できない弱い人間だと思われる。本当は誰かの特別になりたい。あの人の特別になりたい。でもあの人の特別はほかにいて、僕はそれを知らないようにしている。あの人は僕にそれを知らさないようにしている。それを早く知りたい思いもある。それを知ったら、数少ない綺麗な思い出だけを抱きしめて、僕はビルの屋上から飛ぶ。

 人生っていうのは、僕はたった一つの、石ころ程度の幸せがあればいいと思っている。人にやさしくされた、それだけで僕の人生は価値あるもののように思っている。僕は人生なんてそんな大層なものに思わない。ただ生きて、死ぬだけだ。意味なんてないし、だからこそ、どんな小さな意味でも、意味づけができたとき、その人生は救われるように思う。

 僕は今、愛の意味を知ることだけのために生きている。そして、再び涙を流すためだけに生きている。

短歌十首・皐月水無月

 

 1、高崎、白衣観音の御足下にて。三首

 

山の屋に鳴る一輪の風車

心吸はれし

その一輪に

 

名も知らぬ高山草の背の高き

花の小さき

そを眺め居る

 

観音の御足のもとの店座敷

山風に鳴る

初夏の風鈴

 

 

2、倦怠の実家の昼。三首

 

隣家の犬も寝さしむ蒸し暑さ

皐月の終り

夏のはじまり

 

われ生まれし時に植へたる花水木

今年も咲けりと

祖母の言ふとき

 

いづくより渡り来たりし

つばくらめ

ふるさとの風を忘れざらむか

 

 

3、心病む朝。三首

 

われ一人この世に要らぬごとく見え

床より出でぬ

心病む朝

 

雉鳩のほつほつと鳴く声聴きて

雨を思へり

ふるさとの雨

 

尋常のことすらできず

われは泣く心を持ちて

今日も過ごしぬ

 

 

4、夜明け前。一首

 

鳥たちの唄も聴こえぬ

朝まだき夜街のしじま

胸のざわめき

ポーラスター

 子ペンギンは、今日も北極星を眺めていた。そして帰らぬ父親のことを思った。父は地吹雪の中を出ていった。餌を取りに行ったのだった。月と日が過ぎ行くのを、幾度数えただろう……。母親も自らも飢えていた。飢えてなお、父親を信じる思いだけで生きていた。

 子ペンギンは、凍てつく氷の大地の上で生まれた。生まれてすぐ、産卵で体力を消耗した母親は、海へと栄養を摂りに向かった。そして同時に、母親は、その子供のために餌を持ち帰るという使命も受けていた。子を産んですぐに、その疲れ果てた体を引きずって、安全な繁殖地から遥か隔たる氷海へと、地吹雪の中を進む母親は、自らの命を懸けて新しい時代の生命をつなごうとする気魄の結晶であるように見えた。

 まだ卵であった子のもとに残される父親もまた、母親と同じような過酷さを、黙々とその一身に背負っていた。草も木もない、他のいかなる生物も生存を許されないような、極寒の大地の上で、父親は、極北の周りを星々がめぐる夜の回数が、およそ六〇を越すほどの期間、子を温め続けなければならなかった。母親が無事にもどるまで、父親は子のもとを離れられないため、一切の食事を絶って立ち続けなければならなかった。時に地吹雪が吹き付け、飢えと激寒になぎ倒されそうになりつつも、灯りはじめた新生の小さな兆しを、父親は守り続けた。やがて子は孵化し、凍える現世の苦しみの中に、生まれ落ちた。父親は、自らの細胞を削って出した蛋白質を子に与え、母親が戻るまでのつなぎとした。気の遠くなるような自己との戦い、それにぎりぎり耐えうるだけの肉体を、神から預かった父親は、その小さき者への愛だけで、二つの命を繋いでいたのだ。

 母親が帰り、その胃袋の中に入っていた大量の魚を、子に受け渡した。もう測り知れないほどの時間、断食を強いられた父親は、今度は自らが氷原を出て、寒海へと向かった。休む暇はなかった。栄養を蓄えておく力もまだ十分にない、わが子の生命は待ってはくれない。常にその身を育てていくための、energyを求めている。

 子ペンギンは、朧な視界で星空ばかり眺めていた。母親は常に傍についていた。周囲には、同じようにたくさんの母と子が、父親の帰りを待ち続けている。ただでさえ死にかけている父親は、海へと向かう道の半ばで、力尽きることもある。その際は、母親と子ペンギンの命も危うくなる。三身の運命が一体となって、父親の肩の上に圧し掛かっていた。

 日がめぐり、月がめぐり、初冬に生まれた卵は、今既に春の日を迎え、黄金色の日差しの中に、鈍色の産毛を輝かせていた。子ペンギンは、まだこの世界が苦悩の連続であることを知らない。母親はこの世界が苦悩の連続であることを知ってなお、生命の縄を純朴に結んでいる。父親は、まだ帰らない。

 やがてcolonyの他の父親たちは帰って来た。母親たちは歓喜の声でそれを迎えた。自分の妻だけが出せる、その声めがけて、夫たちは餌を届けるのだった。春を迎えた氷原の雪の上に、親たちは愛の交感を求めた。子たちはその愛の温もりに包まれて、大きくなってゆく。

 しかし、その子ペンギンのもとには父親が来なかった。それでも母親は待ち続けた。待つこと、それこそが愛であった。自らの選んだ相手を疑うことは、自らを疑うことでもあったからだ。母親は父親の肉体も、そこに宿る魂も信じていた。だから待ち続けた。

 他の家族では、父親と母親の交代の時期を過ぎた。それでも父親が帰らぬ、その子ペンギンの母親は、ついにある決断を下した。それは、父親が死んだという断定だった。これ以上待てば、自分も子も、諸共死ぬのみだと悟った母親は、流氷のみの待つ、あの冷海へと急いだ。子はただ一人、氷原に取り残されることとなった。

 子ペンギンは、一人で待ち続けた。夜になれば、風が自らの幼い皮膚を打ちつけた。その痛みから守ってくれる親は、いない。他の子供たちが集まって、Crècheを形成するには、まだ皆幼すぎた。親が傍についている必要があった。

 子ペンギンは、極寒の夜を一人過ごすしかなかった。やはり北極星を見つめていた。あの星だけは、決して大海に沈むことが無かった。月も日も、多くの星々も、必ず大海に沈む時が来る中で、極北に坐すあの星だけは、不沈の覚悟を抱いていた。子ペンギンは、その大いなる決意のようなものに、あの日の遠ざかりゆく父親の背影を見たようだった。

 母親が戻ってきて、子ペンギンは餌を与えられた。母親は休むことなく、すぐに海へと向かう。すでに、子ペンギンに必要な餌の量は、母親の胃袋の大きさだけで支えられるものではなかった。ゆえに、子ペンギンは痩せていた。それでも、生きることは中断できなかった。生存に意味などなく、その中には苦しみしかなくとも、子ペンギンは、生命それ自体のぎりぎりの強さを、小さなその一身に満たしていた。そして帰らぬ父親のことを、何度も思い出した。そのたびに、北極星が輝くようだった。

 周囲の子供たちも、必死で生きていた。両親がいるとはいえ、生き抜くためには必死になって、餌を食べなければならない。親たちも、自分以外の子供に与える餌はない。まれに実子が死亡した親たちが、違う家族の子供を奪って育てることがあった。しかし、それも大体はうまく行かなかった。子が生きがいになるのか、生きがいを子に見出すのか、何のために生きるのかなど、誰も知る由はなかった。それが大人であっても、子どもであっても。ただ、生きるということそれ自体を、繰り返していくしかなかった。

 厳寒の極地に花は咲かない。草木も萌え出ずることはない。冷酷な、偉大なる正午の静寂の中では、あらゆる時間が止まってしまったように見える。幼子を脱する頃の子ペンギンには、生きるということが、ただひたすらに苦痛を折り重ねていくことであるということを、直観するだけの力があった。餌を親に貰い、それで生存を繋ぐだけの生活。やがて親の不在には、同じくらいの年若さの仲間たちと寄り添い合い、成人となる日の戦いの場である、あの氷海へと、徐々に進んでいくのだった。途中寒さに倒れる者もいた。天敵に襲われる者もいた。人間に捕獲される者もいた。飢えて骨のようになり、死んでいく者もいた。しかし、子ペンギンとその仲間たちは、歩みを止めることはなかった。歩むことが生きることであり、生きることは食べ、そして進むことだった。

 その子ペンギンは果たして、海へとたどり着いた。かつて両親が出会い、そして、自分という存在を生み出す契機となった場所。かつて両親が、自分のために命を賭して戦っていた場所。海は、自分という存在の過去の故郷であり、自分という存在の未来の戦場でもあった。子ペンギンの母親は、もう死んでいた。それを子ペンギンは知らなかった。知らずとも悟っていた。

 子ペンギンは、もう自分で立つだけの力はあった。あとは、切り立つ氷の断崖から、凍てつく海の中へと飛び込む勇気だけだった。仲間たちも、海を前にして立ち止まっていた。子ペンギンは断崖の先を見た。海は、全てを飲み込む暗黒の魔物のように、大きく口を広げていた。潮が渦を巻いて岩肌を叩けば、波は白い飛沫となって砕け散った。

 太陽の出ているうちには、誰も飛び込む者はなかった。夜の闇の中で、仲間たちは海の底の黒さに怯えていた。ただあの子ペンギンだけは、やはりこの夜も北極星を見ていた。不可能を越える命の力強さを教えてくれた父、全てを包む愛の光を教えてくれた母、そして、父と母の愛と命を一身に引き受けた自分……。極北に輝く星は、唯その一点から世界を照らしていた。その一点に向かって、自分は向かっていくのだと思った。全てはあの一点から生まれ、そしてその一点へと還っていくのだと悟った。

 夜明けはまだ遠い。しかし、明日の朝になれば、自分は飛んでみるしかない。極北に辿り着くために。生命のtruthに、愛のverityに、辿り着くために。

 子ペンギンは、そんなことを思いながら北極星を見ていた。

 子ペンギンは、いつまでも北極星を見ていた。

2020年東京都知事選挙に寄せて

 2020年7月5日、本日は東京都知事選挙の投票日です。それに寄せて、僕が思うことを少し述べようと思います。

 今や国民的漫画となった尾田栄一郎『ワンピース』第10巻第90話に、僕の一番好きな名言があります。小さなコマで、あまり注目されるような場面ではないですが、本当にいい言葉です。主人公ルフィが、魚人アーロンと闘う中で放った言葉であります。アーロンは魚人が人間の上位種であるという自負を持っており、人間は魚人に比べて劣っていて、何もできない弱い種族だとけなします。それを受けて、ルフィは以下のように言いました。

おれは剣術を使えねェんだコノヤロー!!!

航海術も持ってねェし!!!

料理も作れねェし!!

ウソもつけねェ!!

おれは助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!!

 選挙の話をしていて、いきなり少年漫画の話をするのは関係が無いように見えますが、僕が政治に求めることの第一が、上述したルフィの言葉に詰まっているような気がするのです。

 僕は常々、人間とは一人で自立して生きているようであって、多くの人と助け合って生きているように思うのです。それは友人とか配偶者とかそのレベルの話だけでなくて、本当に多くの人間が目に見えない助け合いの網で繋がっているように思うのです。

 ここで僕の話を少しさせてください。僕は、実は広義でいうならば障害に入るような疾患を持ってこの世に生まれました。その疾患の名前は、先天性内反足と言います。これは、足が何らかの原因で内側に歪曲して生まれてしまう疾患で、治療が成功しないと歩行困難になり、足の甲で歩かなければならなくなる場合もあります。大体1000人に1人くらいの確立で発症するらしいです。幸いにも、僕はその疾患を完治することができ、今は生活に支障がない状態になっています。

 そういう疾患を持って生まれたので、僕は生まれたときから、普通の人以上に誰かに助けられて生きることが多かったように思います。病院の先生や保育園の先生、両親、祖父母、その他色々な人の理解を得て、助けてもらって生きてきました。僕の小さいころの写真を見ると、ほとんど足にギプスをはめています。3歳くらいでギプスが取れても、12歳になるまで、夜間はずっと矯正のための装具を足につけて寝ていました。夏場は蒸れるし、肌も荒れたでしょう。僕もつらい思いをしたことをよく覚えています。自分が普通とは違うことで悩むこともありました。

 それでも、今になって思うと、それだけ僕は誰かに助けられることの意味を知れたし、何かマイナスを抱えて生きていることのつらさや孤独みたいなものも知れたと思います。話を戻しますと、ルフィの言葉が僕に響いたのは、きっと僕自身が、誰かに助けてもらわないと生きていけない人間だということを、強く感じて来たからだと思っています。

 今も僕は、色々な疾患や悩みを抱えて、友人や大学の先生や医者の先生や家族に助けられながら生きています。そしてそうやって助けられることは、人間として当たり前のことなのだと思うようになりました。自分ももしかしたら、過去に誰かを助けていたかもしれないし、今後も助けたいと思うし、そうやって助け合うことが、人間の人生ってもののように思います。

 誰も一人になるべきではないし、誰でも生きていく権利はあるし、どんな生でも肯定されるべきだと僕は思います。

 ところが、最近はどうも「自己責任」というような言葉が流行り、経済的に困窮するのも、学業がしっかり行えないことも、家庭を持てないことも、全てがその人自身の責任であって、その人が努力しなかったのが悪いのだ、と考えられているように思います。その結果、互いに助け合い、いい意味で依存しながら生きてきた人間が、孤立し、切り離されるような感覚が生じているような気がします。障害や疾患を抱えた人は、その人自身は何も悪くないのに、効率的な生産活動が難しいという理由だけで、施設に入れられ、個人の自由や尊厳を全うできない状況にされているようにも思います。

 僕は、自己責任なんて嘘の言葉は使わないで、全ての人に、生きる価値があることを認め、みんなで支え合って共生していくことが本当に良い社会であると思います。

 しかし、人間個人の力ではできることが限られています。今日本にだけでも一億人を超える人が暮らしていて、巨大な諸制度と生産機能があります。一人でそれを変えることはできません。だからこそ、政治があり、選挙があるのだと思います。僕たちの考えを、目指す社会の像を、実現するための制度が民主主義だと思います。ゆえに選挙に行って意思表示をすることが大事なのだと思います。

 僕の大好きなミュージシャンの尾崎豊に、「誕生」という曲があります。その最後に、彼はこういうセリフを入れています。

新しく生まれてくるものよ お前は間違ってはいない

誰も一人にはなりたくないんだ それが人生だ 分かるか?

 障害があっても、疾患があっても、まわりの人と違ってしまっても、それは間違いではないのだと尾崎は言ってくれています。全ての生が、それ自体として輝いていて、全ての人間に生きる価値があるのだと、僕は捉えています。そして、互いに足りない部分を、互いに補い合うのが人間の社会であると思います。

 政治は、助け合いのより大きな形であるべきだと思います。困っている人には、手を差し伸べる。足りない部分には、それを補う政策を行う。それが政治の役割です。政治には、それができるんです。人を思いやる心さえあれば、人類はどんなことだってできます。できると僕は信じています。まだ、諦めるにははやいと思います。

 さて、今回の知事選挙で、一番思いやりがあるのは誰でしょう。困っている人々を助けようと言っているのは誰でしょう。それを実現できそうなのは誰でしょう。それは、皆さんの判断にお任せいたします。ただ、未来を決めていくのは、僕たちの一票なのです。それを捨てることは、未来を捨てることにもなります。僕たちはまだ若く、この世界の中で生きていくしかないのです。だったら、皆にとって暮らしやすい社会になった方が、絶対に良いはずです。

 それでは、この辺で筆を置きたいと思います。またいつかお会いしましょう。