Shibaのブログ

日々の読書や芸術鑑賞、旅行などの体験を記録するとともに、その中で感じたこと、考えたことを記述します。

その「よろめき」

 僕はそれを、「よろめき」と名付けている。

 その感覚は、恐らく多くの人が味わったことのあるモノではないかと思う。忙しなく生きている日常の中で、ふとした瞬間にそれは訪れる。それは例えば、学校や仕事の終わりに、疲れて駅のホームで電車を待っている時、体全体が、なだれ込むように線路へ転落していきそうになる感覚。それは例えば、朝の倦怠の中で、信号の変わるのを待っているとき、車が高速で行きかう道路に向かって、吸い込まれそうになる感覚。それは例えば、橋の上から川を見たとき、キラキラと輝く水面に、もう一人の自分を見つけて、それと一つになろうとするような感覚。そういったものである。

 死にたいわけではない。消えたいという感覚とも違う。「死にたい」「消えたい」という言葉で説明すれば、伝わりやすいかもしれない。しかし僕は、それらとは違う感覚であると思っている。感情でも思考でもない、魂が、吸われていくような感覚。それは僕という生命の根幹から出てくるような強い衝動なのだ。フロイトでいうような、タナトス(デストルド)というものかもしれないが、僕はそれを「よろめき」と呼んでいるのだ。

 「よろめき」なんて言うと、どこか三島由紀夫的だなあと思われるかもしれない。けれど、僕の感覚をできるだけ正確に表すならば、「よろめき」なのだ。「ふらつき」でもなければ「ゆらめき」でもない。「ぐらつき」とも違うし「たゆたい」でもない。とにかく僕としては、それをずっと、「よろめき」と呼んでいる。

 この「よろめき」の正体は何なのだろうか。その答えは、残念ながら僕にはわかっていない。ただ、僕は自分の生命の正体が、なんとなく感覚としてつかめているような気もする。それは、普遍的な真理ではなくて、僕にとって自分の生命が、どんなものであるかという感覚だ。だから、僕以外の人には理解できないものであるかもしれない。僕は正しさを求めているわけではない。僕は僕にとっての「僕」がどんなものであるのかを、知りたいだけなのだ。自分にとっての自分とは何か、それが僕にとっては最も大切な問いなのだ。

 僕はもう、長年の間、この「よろめき」を感じて生きてきた。何度死のうとしたのかは数えきれない。それがいつから始まったのかさえ忘れてしまうほど、長い間、僕は「よろめき」を抱えながら生きてきた。確実に思い出せる強い「よろめき」の記憶は、高校二年の頃、何もかも嫌になって、前橋駅のあのホームに座り込み、ひざを抱えていた時だ。僕はアナウンスの後に、遠くから聞こえる電車の車輪の音に、ぐっと引きずり込まれた。存在全体が線路の方へ向かって行った。足が自然に動いていたのだ。そして、僕は黄色い線を越えて、ホームの突端に立っていた。誰かの声が聴こえた。電車が迫っていた。汽笛がけたたましく鳴り響く。その瞬間、僕は後ろに二歩、そっと下がったのだ。まるでまだ死ぬべきではないと悟ったかのように、僕は自動的に、後ろに下がっていた。そんな経験を、僕は今まで何度も味わってきた。そのたびに感じるのは、死ねなかったことへの後悔と、助かったことへの安堵だった。ぎりぎりのところで僕を生の方に引きずってきた何かは、何なんだろうか。

 僕はそれを、やはりフロイト的になってしまうが、生存の本能のようなものとして捉えるしかない。僕の中では、だから、いつも生と死の衝動が互いに戦い、葛藤を引き起こしているのだ。僕はこういう二元論的世界観を好まないが、人間が多く神話の時代から二元的世界を好むのは、人間の内面にあるその「戦い」を意識してのことのように思う。生と死という究極の戦い。その戦いに、僕たちは常に向かわざるを得ない。

 善の神と悪の神。天国と地獄。断罪と救済。輪廻と解脱。光と闇。僕たちはいつだって、生と死を考えてきた。僕のその「よろめき」も、恐らくありふれた人間の体験で、しかしながら、いや、だからこそ宗教的な体験なのだ。登らない朝日はないけれど、沈まない夕日もない。生滅を繰り返すのが、世界のただ一つの定めであるだろう。だとすれば僕が生に苦しむことも、死を希求することも、世界の理なのかもしれない。

 話は変わるが、僕は自分の生存を、自分でどのように捉えているのかを、少しわかってきたと言った。それについて書きたいと思う。

 僕はその感覚を「よろめき」と名付けたように、自分の存在を確固たる自我としてではなくて、むしろ変化し、時に揺らぎ、消えもするようなものと捉えている。デカルト的コギトなんて僕にとっては嘘で、むしろ老荘の思想のように、東洋的な無常観に僕は支配されているだろう。僕にとって、僕は確かに存在する者ではない。だから僕はときに立ち消える。煙のように立ち消える。主観が無くなる瞬間がある。つまり、忘我=エクスタシーになるのだ。僕は世界と一体となって、輪郭を失う。僕の魂は放散する。こんなことを言うと、頭のおかしい人間だと思われるかもしれない。それでもいい。僕は嘘は言っていない。本当に、そういう瞬間があるのだ。

 では、僕は僕をどのように考えているのか。ここまでの話の内容だけでは、普段の僕には自我ではないが簡単な知覚の束のようなものがあって、それがふとした瞬間に放散するのが「よろめき」なのだと捉えられるかもしれないが、そうではない。僕はむしろ、普段においては主観すら存在しないと考えている。いや、厳密には、感覚としては存在してはいるのだが、明確にそれを強く意識するような自己意識はないと考えている。考えてみてほしい、自我、主観などと言うが、自分の輪郭をしっかりと把握して、他者との間に明確な境界線を引いて生きている人はどれほどいようか。なんとなく生きて行動しているものを、勝手に自己だと考えているに過ぎないのではないか。だから僕はむしろ、僕と言う存在を、幻覚であると捉えている。僕は蜃気楼のようにふるえて、その実体はない。僕は陽炎のように揺らめき、近づけば遠ざかる。僕は煙のようにたゆたい、触れようとすれば消えてしまう。僕はそもそも、そんな存在なのだ。

 だから、ここからが一番大事なのだが、僕にとっては「よろめき」こそが実体の正体なのだ。生と死が葛藤する場所、生命の震動する舞台、主客の消失点、永遠の境界線、それが僕なのだ。流体に触れたとき、その境界が揺らぐ。その揺らぎこそが僕にとっての自己なのである。僕はしかし、流体そのものではない。流体の境界の揺らぎが僕なのである。何か実体を持っていて、それが折に触れて動き出す、という存在モデルではない。変化と生滅の過程で発生した震動、その避けられぬ葛藤こそが僕の正体である。

 「よろめき」こそが僕であるから、僕はそうした「よろめき」を感じる時に、最も自己を強く感じる。消えてしまいそうになった時、最も強く存在を感じる。それはまるで花火が、散る間際に最も華やぐ光を放つように。桜の、散り際の香りが最も素晴らしいように。消えていく際にこそ、最もそれが尊く、美しく感じるのである。そのように例えてしまうのは、文化的側面に訴えかけて、少しずるいかもしれない。しかし、消え去る時に初めて出会うような感覚というものは、僕はあると思う。仮に僕の自殺が本当に成功したとするならば、僕の生命の炎は、その死ぬ瞬間に最も力強く燃え上がるだろう。自殺でなくてもいい、誰かと究極まで愛し合うことも、僕にとっては死ぬようなものに近いと思う。その人に向かい、その人の中に入り、その人の中から抜けていく。その時、僕は愛する人を経て一度死に、生まれ変わる。新生は死から始まる。僕が芸術をやることも、一度死んで生まれ変わるようなものなのだ。

 僕は「よろめく」、でもそれは僕にとって、本質的なことなのだ。僕はいつか、「よろめき」過ぎて死んでしまうかもしれない。でも、それも僕にとっては本望だ。僕は僕のために死ぬ。芸術のために死ぬ。生命のために死ぬ。新しき創造のために、僕はこの命を捧げる覚悟だ。新しき明日のために。新しき愛のために。